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2000年からモテる方法

文芸社『A』 Vol 3 [1999]



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第2回 「初期設定」

 

 

「からだがあるって嬉しいよね」 - フラダンサー

 

 魔術修行に於ける最初のクライマックスである星幽体投射(Astral Projection)は、エーテル体ダブルと呼ばれる「第二の身体」へ意識を移植し、肉体を、そして三次元時空間をも超越して行動する体験を指す。厳密には、幻想的なイメージの世界を象徴を道標として旅する星幽体投射と、しばしば「現実の」物質世界と奇妙にかぶる風景を歩む体外離脱(OOBE=Out Of Body Experience)は区別される場合もあるが、ここでは問わない。いずれにせよ、肉体を抜け出して、黙想している、または眠っている己の肉体を見下ろす体験が引き起こす圧倒的なリアリティの揺らぎ、大幅ま認識修正の必要性に直面する時、人は自ら生きて行く世界の最初の岐路に経たされることになる。「黄金の夜明け団」出身の女魔術師ダイアン・フォーチュンの下でユダヤ教神秘主義と魔術を学んだW・E・バトラーは、この体験に付随する重大なショックをこう表現している。

「部屋の中に立ち、深く眠っている君自身の肉体を眺めることは、次のような絶対的確信を与えてくれるだろう。つまり、唯物論的哲学者たちがこぞって何をいおうと、君は肉体以上の存在であること、そしてその肉体から独立し、そこから離れても存在しうる霊的実在なんだという確信である。」(『魔法修行』大沼忠弘訳 平川出版社)

 物質と現実が強固な結びつきを保たない世界、それは紛れもなく分裂症的風景である。しかしながら、量子物理学の世界では既に物質の定義は限りなく曖昧となり、物質的基盤に拠った時空間の概念を覆したアインシュタインの理論ですら現在では過去の前提に過ぎないものとされている。ユングは人間の意識下に広がるイメージと象徴の「リアリティ」を理解することが精神病治療の、そして人間存在の神秘を解く鍵であることを確信し、時空を超えて人類の集合無意識に遍在する元型(アーキタイプ)の世界を発見した。

 魔術においてアストラル界と呼ばれるこの広大無比なイメージの領域は、夢というかたちで我々が毎夜接している身近な世界でもある。星幽体投射とは即ち夢の領域への意識的な以降の技術であり、セノイ族に伝わる夢見の技法と本質的に等しい。セノイの宇宙観においては夢は「夜の現実」であり、日中の活動同様に随意的かつ積極的に各々の働きを全うすべき「もうひとつの日常」である。西洋魔術においても星幽体投射の初歩訓練として、睡眠中、夢を見ている最中に「これは夢である」と意識的に気づき、イメージの主導権を掌握することが奨励されている。魔術の訓練を受けていなくてもこれが生来的に得意で、常に「夢だ」と気付きながら眠っている人も、それほど稀という訳ではない。

 千変万化するイメージの世界を意識の力によってコントロールし、望む結果を導く技術によって様々な種類の財産や治癒を得るという発想は、古い土着信仰から現代の自己啓発セミナーの類いに至るまで通底し、ありふれたものですらある。夢は、覚醒時に意識的、無意識的を問わず受けた印象に拠り、その逆ではないという考えは今日では朴訥なものと捉えられている。腰痛を煩う患者が重い鎖の枷に囚われる夢を見ることと、瞑想やイメージトレーニングが心身の機能障害を克服する有力な手段となり得ることを、ことさら区別して考える臨床医は少ないだろう。ともあれ夢の現実と覚醒時の現実は密接に結びついており、相互に影響し合っていることを認めたならば、セノイのシャーマンが行う夢見の技術、魔術師が行う星幽体投射の臨床的実効性を否定しなければならない理由は消滅する。初めて肉体の外に歩み出た時、リアリティを強烈に揺るがすこの体験が忌むべき病理を生むか、より上位の認識と拡大された行動力を生むかは、実際のところ体験者の趣味性による選択でしかないといえるだろう。肉体の外はイメージの世界である。否定的感情と恐怖を携えてこの領域に足を踏み入れれば、アストラル界は恐怖に満ちた闇の世界となり、溢れる期待と積極的意志を携えていれば、未知の財宝がきらめく星々の神殿となる。すべては体験者のイメージ能力、あるいは趣味に依るのである。

 自らの意志と趣味の反映としてデザイン可能な「もう片方のリアリティ」に意識的であれば、例えば昼のTVショーで高慢なキャスターが「そりゃ奥さんあんたが悪いよ」と一喝する時に行使されるアストラル的、魔術的な影響力、治癒力について考察することができる。前回、魔術戦とは即ち情報戦であり、逆もまた然りと提起した意図をこの問題だけに帰して論じることは本稿の真意ではないが、メディアが伝達する様々な情報、人と人とのコミュニケーションにおいて交換されるあらゆるイメージが流れ込む「視得ざる回路」について考察することから始めて、気配、間合い、兆しといった、人間が本来持ち合わせているI/Oデバイスの認識と初期設定、さらに、雑多な、時に猥雑な情報を受け入れ記録していく(自身の世界が記述されていく)記憶媒体の効率的なフォーマットの作法を問うことができるのである。

 さて、幻視、以心伝心など、霊的なI/Oポートによってアストラル界と物質界を接続し、相互に情報を交換する作業に於いては、デバイス間の通信プロトコルが「便宜的に」統一される必要がある。一個人で完結するスタンドアロン環境はともかくとして、不特定多数 - この言葉が実践的に何を指すことが「可能」かは、追って触れて行きたい - と接続するネットワーク環境では、プロトコルの持つ意味は殊更重要である。

 ここから本稿は、2000年からモテるための第一のリスクを取り扱うことになる。熟考。真に洗練されたネットワーク環境とは、決して画一的に規格化され固定された単一のプロトコルによってではなく、相互乗り入れが可能な開かれたプロトコル同士のセッションによってのみ具現される。

 OSの差異を超え、また端末プロトコルの差異を超えていくハイアープロトコル(この時点でプロトコルという概念はメタレベルへと移行しているのではあるが、「便宜上」プロトコルという概念の援用を継続してみよう)を想起する時、我々は魂のハッカーとしての視点から今一度「神」という概念に向き合うこととなる。そして、セキュリティホールを虱潰しに追い詰めていく霊的ハッキング作業を開始した途端、ある「トラップ」へと墜落していくことを余儀なくされるのである。W.S.バロウズが「言語ウィルス」と呼んだ、頑強極まるセキュリティシステム、高慢なTVキャスターの鋭いまなざしが見据えるあの秘密の重力圏へと。

 しかしながら、セキュリティホールを持たないセキュリティシステムは存在しない。とりあえずバロウズ翁に敬意を表して「言語ウィルス」と呼ぶことにするこのセキュリティプログラム解析に取りかかる前に、我々は霊的紳士淑女としてまず「時間」に関する洒落問答「どこでもない、いま、ここ Nowhere, Now Here」で軽くエーテル体をほぐしておこう。モテるのは常に紳士淑女であり、紳士淑女はいつも体が柔らかいものなのだ。

 

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