長谷川奥名監督作品「日本零年」オフィシャルブック(2017) [EK-STASE]
マッケナが予言した「時間の終わり」から1年経った、という会話の記憶が正しければ、長谷川億名との初めての出会いは2013年だった筈である。億名は熊野詣での道中岡山に立ち寄り、手土産に上等な日本酒を頂いたように思う。同伴した作家Zenarchy(水田諒、「イリュミナシオン」テル役として出演)を介しての対面で、バロウズやクロウリー、テレンス・マッケナの「タイムウェーブ・ゼロ理論」などについて語った筈だ。対話の内容は憶えていない。とりとめなく流れていく会話、滑り込む酒の香り、物静かで不安げな億名が投げかける晦渋な質問、沈黙、連想と飛躍、そういった夜の質感だけを憶えている。当時私が構想していた「時間憲法」のアイデアについて、熱に浮かされたように語ったかも知れない。時間についての酩酊夜話、それが億名との出会いであった。
億名が「日本零年」に着手した後、その着想の根底にあの日の酩酊夜話がある、との言及をインタビュー記事などで目にしつつ、私は「イリュミナシオン」も「デュアル・シティ」も未見のまま、なんとなく時が過ぎていった。もしかしたらDVDをすでに貰っていたかも知れない。おかしな話だが、私が「イリュミナシオン」を観たのはだいぶ後である。なんとなく、そこに描かれている世界観を改めて確認する必要がないような、あの夜の酩酊した時間論がそのままに現像されているのであろう、というような感覚があったからだ。観ていないのに、見憶えのある映画。それでいて、紛れもなく唯一無比で、過激に扇情的で、おそらくは映画というフォーマットを大きく逸脱したプロジェクトであることもまた、確信していた。恵比寿の写真美術館で「イリュミナシオン」と「デュアル・シティ」がかかる、と聞いて観に行った時、私は特に「イリュミナシオン」はどうしてもスクリーンで観なければならない、と強く思ったことを憶えているから、おそらくその時点でDVDなどで一度は「イリュミナシオン」を観ている筈だ。渋谷イメージフォーラムで観たのかも知れない。どうも事の前後関係があやふやだ。これを書いている今、私はあの夜に億名が座っていた椅子にかけ、曖昧な記憶を手繰っている。記憶の断片はどれも、微妙に辻褄が合わない。
私にとって、時間はそもそも酩酊的だ。記録され、整理され、直線的に配列された意味の連なりをタイムラインと呼ぶのが慣しとしても、私と億名があの夜に語りあった時間論は、それとは全く異なるものだった。酩酊的な時間の感覚は、一種のオブセッションとして私に侵食しており、独特の恍惚と不安を掻き立てる。私の時間認識は、何かが-何かの-前や後に-起こった、という具合ではなく、何かと何かが共鳴する、その音程だけを聴いているように感じられる。曼荼羅のように展開する、フラクタルな倍音の階層に身を浸す恍惚と、社会生活においてギリギリ「普通」を装い、記録と予定を処理することで、かろうじて事無きを得てやり過ごす不安が、私の主観的な時間感覚の二軸である。何かが上手くいけば、そこには連続があり、何かが上手くいかなければ、そこには断絶がある。
例えば私は、人の顔と名前を憶えることが絶望的なまでに苦手だ。これは好意や親密さとも関係ないようで、会う人全てが少なくとも視覚的には初対面であり、それを悟られぬよう、曖昧な会話の網を張る術を身につけている。私はこの事を気に病む余り、過去に脳神経外科を受診したことがある。CTスキャンでは特に異常は見つからなかったが、「いや、それでも私は憶えられないんです」と医師に追いすがった。医師は億劫そうに「それは脳機能の問題ではなく、脳の使い方の問題である」と述べ、つまり私が馬鹿だということを暗に示唆し取り合わなかったが、その時のCTスキャンから、予想だにしなかった事実が判明した。哺乳類の頚椎は、人でも猿でもキリンでも同じく7個である。しかし、CTスキャンに映し出された私の頚椎は8個あり、これは爬虫類の特徴だというのだ。約23万人に1人という割合で、頚椎を8個持つ人が存在するらしい。医師はCT画像をレーザーポインタで執拗に指し示し、何度も数えて笑った。私の幼少の頃の仇名「トカゲ」を命名した友人は、直感的にこのことを察知していたのかも知れない。子供はそういうことに敏感なのだろう。こんなところにさらっと書くようなことではないのかも知れない。わからない。
テレンス・マッケナは、シロシビンとDMTによって得たヴィジョンから「タイムウェーブ・ゼロ理論」を構築し、火、車輪、エンジン、飛行機、宇宙技術、情報技術と展開するテクノロジー進化の級数的な加速度から、遂には空間と時間がオーバーフロウし、以降あらゆるNovelty(新規性)が飽和する時点(マッケナはこれを「タイムマシンが発明される瞬間」と表現した)を、2012年と算出した。前々年の大震災を契機に、余りにも生々しい肉体の質量と都市の重力に困惑していた私は、マッケナの予言した「時間の終わり」について、「別の解釈」を億名に語った筈だ。タイムマシンは必ずしも物理的な、マシナリーなテクノロジーである必要はないこと、タイムラインの内部にある私たちが、それを自ら発明することは不可能かも知れないこと、そうであるならば、「時間の終わり」は、マシナリーなタイムマシンの獲得ではなく、時間概念そのものの変容として、思想史的な文脈において捉え直す必要があること、など。
20世紀末の情報革命に続く、いわゆるカリフォルニアイデオロギー、即ちテクノ啓明思想を起爆し、米西海岸シリコンヴァレーと東海岸ロボティクスの爆発的興隆、そして知的資本と移民の流動性極大化が引き起こす欧州再編成にまで通底する不可視のコンテクストとして今尚、重要な参照点であるマッケナの時間論は、今日に至るまで日本語圏に殆ど紹介されていない。IT/AI前線からの日本の全面的な脱落の原因は、このLost in translationをおいて他にないだろう。このコンテクストに対して盲目であるならば、現在進行形のダイナミックな社会・産業構造変革の理解は到底不可能であり、つまりは想像力の前衛としてのSFもまた不可能なのだ。その例証としては、マッケナ・ヴィジョンが今日の「シンギュラリティ」「ポストヒューマニズム」といったタームに変奏され続けていることを、指摘しておけば充分だろう。
岡山での酩酊夜話の時点では、このマッケナ的「神経-認知論的タイムマシン」を、億名が映画というアートフォームに落とし込む、という事態は予想していなかった。あの夜に「日本零年」の着想が種蒔かれた、という億名の言を信じるなら、億名自身も、続く数年間で自分が何を創りあげることになるのかを、明確には察知していなかった筈だ。そうであるにも関わらず、私と億名は、あの酩酊の夜に「イリュミナシオン」「デュアル・シティ」そしておそらくは続く第三作を、すべてプレビューし、レビューし、批評した、という記憶を忘却できずにいる。分断された日本、時間ジャンキー、青と赤の点滅、シューゲイザー。あの夜以来、間延びした既視感としての10年代-タイムラインは、実験映像のような無表情さで私の前に横たわっている。そしてそれを、明晰夢の兆しのような「イリュミナシオン」の、「デュアル・シティ」の、スクリーンを染めるYokna Blueの朧な発光が、照らしている。この感光 -ILLUMINATIONS- こそが、「日本零年」をして、マッケナ・ヴィジョンへの感光と再幻視 Re-vision、その意志の、日本語圏における唯一無比の事例、事件たらしめている。
私にとって「日本零年」は、想起されることを待つ記憶であり、スクリーンの点滅は、追想である。この点滅を、億名が企てるマッケナ的加速度飽和、タイムラインからの逸脱を、日本のいわゆる映画人が例えばアンガーやホドロフスキーを引き合いに出して語るとして、そのこと自体に私はさほど興味は湧かない。ただ、点滅する明晰夢のゼロ時点から雪崩寄せる、フラッシュバックの法悦に浴することさえできれば、私としてはそれでいい。
参考:
"The Archaic Revival: Speculations on Psychedelic Mushrooms, the Amazon, Virtual Reality, UFOs, Evolution, Shamanism, the Rebirth of the Goddess, and the End of History” Terence Mckenna, 1992
"Approaching Timewave Zero" Terence McKenna, 1994
「内的宇宙の冒険者たち―意識進化の現在形」デビッド・ジェイ・ブラウン (著), レベッカ・マクレン・ノビック (著), 菅 靖彦 (翻訳)、八幡書店,1995