[2017]
この宇宙がコンピュータシミュレーションである可能性は50%、とするシミュレーション仮説について、哲学的に考察してみる。神学含む先行研究は一切参照しない。うろ覚えと今思いついたことをタイプする。
この議論が起こりつつあるのは、人類自身がシミュレーション宇宙を創造する能力を、具体的に想像できるようになったことが原因だ。限定的ながら複雑な気象予想を行うシミュレータは実用化されており、経済活動や恋愛といった社会的行動、人生経験と呼びうるものの少なくない比重が情報空間、仮想空間を経路として、また環境として成立している。残るのはCPUの演算能力の問題だけであり、それは時間が解決するものだ。研究機関は遠くない未来に、様々な研究目的のためにシムアースを構築し、惑星生態系の適者生存モデルや複雑系工学の精査を行うだろう。量子コンピュータによるCPUの演算能力向上と歩を合わせて、シムアースはシムソーラー、シムギャラクシーへと拡大(あるいは高精細化)されていく筈だ。
シムアースに生成された原始生命アルゴリズムは自律的に進化ツリーを成長させる。これは我々が認識する物理的地球におけるダーウィン的進化モデルを精査することが目的であるから、適宜パラメータに補正がかけられ、シムアースはアースを模倣するよう方向付けられる。補正がかけられない完全にランダムなヒストリの殆どは破綻し、ごく少数のヒストリが熱平衡状態に陥り、さらに少数のヒストリが安定しつつ穏やかな進化を続けるのが観測されるだろう。これら全てのヒストリは研究用途のために観測され続けるが、あくまでもシムアースの主目的は、今我々があるこのアースの進化をなぞることである。それが我々自身についての知見を深めてくれるからであり、故に予算がつくからだ。そのために、パラメータは随時調整され、進化は恣意的に方向付けられる。我々は、我々の知っている世界しかシミュレーションし得ないのである。
言語を獲得し複雑な社会を発展させる人類のシミュレーション研究は、独立した専門分野として興隆し、演算能力の増加に従って既存のシミュレータに統合されるだろう。そこでは意識のなりたち、文明の興亡、脳神経系の発達と行動様式、宗教、思想、戦争などが、様々なパラメータ調整によって検証される。ここでも、パラメータは適宜調整される。我々とは全く異なる認知、価値観、経済システムを持つ知的生命とその文明は、殆どみつからないか、思ったほど少なくないバリエーションを成長させるか、いずれにせよ大した予算はつかない。我々は我々自身についての知見を求めているのであり、我々が知っている我々をシミュレーションすることが主目的だからだ。
さて、シム環境に我々の認知世界が一定解像度以上で安定して構築された後、いよいよクオリアとはなんぞやという大問題にメスを入れることになる。その時点で既にある程度まで神経化学的クオリアのシミュレーションは実現しているだろうが、最終的にそれが我々がクオリアと呼ぶものであるかについては、哲学的議論の余地が残され続ける。感情表現を行い、疑問を持ち、歌や踊りや祭りや戦争を勃発させるシムヒューマンたちの主観、クオリアはいかなるものかについて、哲学的議論とは別に実際的研究が行われる。つまり、フィールドワークである。もともと我々に似せてシミュレーションしているのだから、シムクオリア変換デバイスの開発も容易い。シミュレーション文化人類学者たちがシムリアリティにエージェントとして潜入し、勇猛果敢な実地調査を行う。その過程で、クオリアの定義についての議論のプライオリティは若干下がるだろう。我々がそこに生き生きとしたクオリアを持って飛び込み、シムヒューマンたちと議論し、恋愛し、科学芸術文化の前線をともに観察し続ければ、当面の用は足りるのである。
ここに至って、シムリアルへの移住を選択する人類も当然でてくるだろう。クオリア変換デバイスを脳に接続した人体を厳重に保護しながら、人生経験の殆どをシムアースに移すのである。いまの引きこもりのようなものである。シムアース内での「時間」は、我々からみれば一パラメータに過ぎないので、シムアース内で何百年もの人生経験は適宜圧縮されながら我々の神経化学的認知プロセスに変換される。気の向くままに早送りやチャプタースキップし、学問や芸術や愛を探求する。当然、シムリアル内での死も体験できるが(それは商業シムリアル接続サービスとシム産業勃興期の目玉商品となる)、シムヒューマンのエコシステム、社会進化への干渉は法的に制限される。プロバイダ規約のようなものだ。気まぐれに水面を歩いたり、海をわけたり、何百年も一つの人格で生き続けて世界中で目撃されたりしては、いけない。一般的なアカウントはシムリアル内での平均寿命が有効期限であり、記憶や人脈資産の保持、あるいは忘却などは転生時のオプションとなる。我々がリアルリアルからシムアースにアクセスしている「プレイヤー」であること自体を忘却するオプションもあり得る。それはよりスリリングなシムライフを提供するので、セキュリティの脆弱性が問題とされながらも人気のオプションとなるだろう。
はてさて、ここまで想像してみて、わりとまぁ凡庸なSF世界観だなぁと思われたかもしれない。その通り。この程度のことはもう存分に想像されている。ここからが、私のうろ覚えと思いつきによる幾ばくかの哲学的考察である。
このような想像は(そしてそれは演算能力向上と市場原理に導かれ、多かれ少なかれ遅かれ早かれ、実際にそうなることは十分予想される)、幾つかの哲学的ハードルを我々に突きつける。ひとつは、このシムリアルは、あくまで我々が知っているリアルのシミュレーションであるということだ。シムリアルから得られた知見によって我々の認知は大小更新されるだろうが、全く未知なる宇宙が現出することはない。そうさせないように研究上の制約としてのバイアスが働くのだ。我々に理解できないシムリアルを、我々は制御できないし、する意味もない。我々は、我々の環世界(Umwelt)を再生産することに注力する他ない。そのシミュレーションのシミュレーションたる存在意義を、ダーウィン的淘汰モデルの普遍性として解釈し、科学者と宗教者は安堵するかもしれない。しかし、我々自身が、我々に理解可能な世界となるように、恣意的に介入し方向付けてきたという科学史上のログは、ダーウィン的淘汰モデルに不穏な影、トートロジーの疑念を挟む。
つぎに、この介入によって我々は我々自身の環世界の写しであるシム宇宙を創造し、それをクオリアとして体験した後には、ひるがえってシムではないリアルリアルもまた、上位次元の科学者によって運営・観察・介入されているシミュレーションである可能性が、経験的・経済原則的な説得力を持って迫ってくる。これが今ひそひそと囁かれているシミュレーション宇宙仮説であろう。詳しくは知らんが、おれはそう思う。問題は、事の真偽を証明することではなく、そこから何か有用な、新しい知見、方法論、あるいは、何らかの哲学的思索を抽出することである。 シムヒューマンにとって、リアルヒューマンはつまり神のごとき存在である。時々起こる超シム自然的現象は、運営上の理由によるパラメータ調整、仕様変更、ハッキングなどが原因だが、シムヒューマンはそこに宗教的思想を投影し、様々な神秘説やオカルト理論、ヨガや瞑想の技法を発展させるだろう。この世界は創造主によって創造されたのは違いないが、創造主は完璧ではなく、それがこの世界が不完全であることの理由である、とするグノーシス思想がシムリアル内に自然発生する経過を観察し、シミュレーション宗教学者たちはホクホク顔で偉大な達成を祝うカクテルパーティを催す。そしてあれ?と思い、ふと振り返り、あるいは、虚空を見上げて、黙り込んでしまう。
もしも我々がリアルリアルと認識しているこのリアルユニバースが、リアルリアル内の我々にとってのメタシムでしかないのであれば...じゃそういう宗教でもういいじゃん!解決!てなるのが凡庸というものだ。その程度の結論はヴィトゲンシュタインが既に出している。我々が考察すべきはもっとあれだ。つまり、我々は確かにユニバースを一丁こしらえてみせたが、それは我々が既に知っている環世界、リアルリアルの模倣に過ぎない。もしこのメタシムが同様の経緯で創造されたのなら、それはどのような知性が、何を模倣したのかという問いが起こり、即座に解決する。彼らと、我々は、同じ環世界を共有する、おなじ「我々」に過ぎない、と。
時を同じくして、シムリアル内のシム-シミュレーション宗教学者が、ふと振り返り、空を見上げ、沈黙し、同じ結論に達しただろう。時を同じくして、というのは文学的な装飾である。シムリアル内の時間はパラメータに過ぎず、単に演算の絶対量、Proof Of Workに過ぎないのだから、シムリアルの安定運営が始まって次の瞬間には、このシムリアル内のシム-シミュレーション宗教学者の気だるいひらめきを演算したヒストリが少なくともひとつはあり得るのだ。神は我々だ。そして我々は神ではない。馴染めないパーティから離脱して、バルコニーでふと空を見上げて沈黙してしまったコンピュータナードだ。
ここにおいて、神とか我々とかシムなんとかとかは全て「わたし」に統合されてしまった。そして次の問題である。「わたし」は、環世界を再生産し続けている。何のために? このシミュレーション研究はそもそも何目的だっけ? 引きこもりへの抗いがたい誘惑がなかったとは言わない。しかし一応のお題目としては、我々の宇宙のなりたちについて、より深い知見を得るためである。無数のシムギャラクシーの相関関係をデータ化し、我々と同程度あるいはそれ以上の知的生命体や文明がどのあたりにいつ頃どのように存在する確率を計算することも、当初語られた夢のひとつだ。おそらく、再生産されたシミュレーション内部への探索と、我々がシムリアルを創造する以前にはユニバースと呼ばれ、故郷としての記憶も鮮明なこのリアル(もしかしたらメタシム)への、ミクロマクロ双極に向けた「外部への」探索は、継続されなければならない。たとえメタシムであろうと、光の速度に明らかな矛盾やジッターノイズが観測されようと、我々はより精細に、より遠くへと、この宇宙の探索を続けねばならない。そうしないと、なんかヤだからだ。
バルコニーで虚空を見上げ沈黙していたシミュレーション宗教学者は、唐突に視線をシムビューワに戻す。パーティの席でビューワをいじるのはマナーに反することではあるがそうも言っていられない。そしてシムアース内に、「こちら」を見上げ、同じように困惑している孤独なバルコニー思索者を探す。
あともういくつか、結構な分量で書きたい事、思いついたことがあるのだが、なんかもう面倒臭いので今日はここまでにする。この続きは非線形な幻視の断片となるので、もしかしたら適宜ポストして、なんならあれをやってみるかも知れない。有料ノートだ。夢だった。まぁわからないが、とりあえず今日はここまでだ。バルコニーで一服する。
次は「まなざし」について書いてみようと思う。