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About Contemporary Magick,現代魔術について

現代オカルティズムと秘密結社

「問答2000」 Vol.1 [2015]

 

現代オカルティズムの視座

 今日、日本語圏において「オカルティズム」なる語は、極めて不遇な扱い・誤解を受けていると言わざるを得ません。オカルトという語には、なにか真っ当ではない、蔑称のようなニュアンスが含まれています。70年代日本の「オカルトブーム」以来、その主なトピックはUFO、ネッシー、スプーン曲げ、都市伝説などでした。今日でも「オカルト」というと、都市伝説、超能力、UFOあたりを包含する「尋常じゃないもの」「迷信」の総称として用いられることが多いでしょう。

 しかしまた、インターネット以降、主流文化と下位文化の境界が曖昧になり、あるターム(ここでは「オカルト」という語)が指すものを一義的に定義することが困難・無効となった今日、「占いはオカルトか」と問えば「オカルトである」「オカルティズムの一領域である」「もはやオカルト的要素を必要としないこころの技法である」「それこそがオカルティズムである」など様々な答えが人それぞれに返ってくるでしょう。そのどれもが、それが語られる文脈においては正しいのであり、その文脈は際限なく微分化・多様化しています。英国のかなり学術的な雰囲気の季刊雑誌”Abraxas Journal”は、Esoteric Culture Magazineと銘打っており、OccultよりはEsotericのほうがなんとなく重厚な響きとして受容されている雰囲気があります。Occultという語が消費され、ニュアンスとして散漫なものに成り果てているという事情は、日本も英国も然程変わらないのかも知れません。

 Occultisim, Esotericismの語も、ほぼほぼ学問的な専門領域でのみ通用するのみで、さてオカルティズムの話をするぞ、とか、秘教主義的な、とか軽く使っても、何分語が指す内容が曖昧すぎ、かつ高度に専門的な領域ですので、極々少数の研究者間でしか、活発で実のある議論は為されていないのではないかと思われます。また、学問分野でも、日本ではルネサンス史、グノーシス主義など歴史的な研究は盛んでも、近現代の事象となると、これまた広範な現代宗教学、またはカルチュラル・スタディーズの対象としてポップカルチャー論の範疇で語られるに留まっています。

 オカルティズム、エソテリシズムは歴史的なテーマであるのみならず、宗教、哲学、芸術、ポップカルチャーの領域を横断する生きた文化事象であり、秘密結社、アクティヴィズム、メディア環境といった現代的Contemporaryで実際的Actualな諸要素を包含します。特に、20世紀以降のオカルティズム / エソテリシズム動向は、メディア環境、対抗文化、フェミニズム、陰謀論文化、スピリチュアリティ、サイバネティクスなどのダイナミックなうねりの背景、あるいは中心で、一種の熱源としての役割をも果たしてます。本稿では、歴史研究としてではなく、現代の生きた文化事象としてのオカルティズム/ エソテリシズムを論じるために、今一度、この二つの語が持つ現代的な意味を捉え直し、現代思想、現代美術と同じ意味での現代オカルティズム Contemporary Occultismの視座を定めて見たいと思います。

 


なにが、なにから隠されているか

 これまでもさんざん語られたことではありますが、ともかくも語源に立ち返ってみましょう。Wikiによれば

 

ラテン語: occulere の過去分詞 occulta(隠されたもの)を語源とする。目で見たり、触れて感じたりすることのできないことを意味する。そのような知識の探求とそれによって得られた知識体系は「オカルティズム」と呼ばれている。ただし、何をもって「オカルト」とするのかについては、時代や論者の立場等により見解が異なる。ja.wikipedia.org

 

とあります。「目で見たり、触れて感じたりすることのできないこと」は、本稿においても重要なスタート地点です。語源としてはそれ以上のことは含んでいないのですから、ここから転じて「外部から隠された智慧」とその伝承、という意味でのオカルティズム概念が派生したと考えられます。つまり、(わたしの知覚から)隠されたものを「体験」し、そこから汲み出された「知識」を(世界一般から)を隠す、という2重の隠蔽を、オカルティズム概念は包含しているのです。

 個人の視点でみれば、「オカルト的諸力」とはすなわち、オーラ、エーテル、プラーナ、天使や悪魔など霊的存在などといったものでしょう。それらは秘教的(Esoteric)な知識・訓練を通じて、あるいは偶発的に、拡張された知覚と思考パラダイム、すなわち変性意識状態によってはじめて感得されるものであり、通常は見えも感じもせず、あるいは「それとして」認識することが出来ないものです。この場合、これら諸力は「力が、わたしから隠されている」のであり、それが明かされる形態は「体験」でしかあり得ません。ケンブリッジの大学で活躍した哲学者ウィトゲンシュタインが「語り得ないもの」と呼んだ「それ」です。

 社会的な文脈からみれば、秘密教義、秘儀、秘密結社、口伝、陰謀など、何らかの理由によって思想、組織、伝承、計画が「公然の社会から隠されている」。このような思想、組織、伝承、計画を扱うものもまた、「オカルティズム」であり、それは体験ではなく文献の解釈・意味を扱うが故に「秘教主義Esoterisicm」へと展開します。

 

なにがなにから開陳されるか

 

EsotericismをWikiで引いてみましょう。

 

エソテリシズム(或はエソテリズム)は、秘儀参入者の小規模集団で保存され、共有されていた秘教的見解や宗教的信条、あるいは稀少または一般的ではない考えを保持することを指す。語源的には、「内部の」を意味するギリシア語ἐσώτερος (esôteros)を語幹とするἐσωτερικός (esôterikos)(最も内部に関係する)に由来する。秘教的宗教・哲学運動の学術研究、また、より通俗的・教条的であったり、より確立された伝統といった主流文化とは区別される信条、実践、体験を信奉する宗教及び哲学の研究を指す。

秘教的宗教・哲学運動の例としては、錬金術、人智学、占星術、初期キリスト教神秘主義、グルジェフ思想、タントラ仏教、フリーメーソン、グノーシス主義、ヘルメス主義、ヒンドゥ女神信仰、左道派、カバラ、魔術、メスメル主義、ネオプラトン主義、数秘学、薔薇十字主義、サイエントロジー、スーフィズム、スウェーデンボリ主義、心霊主義、タオイズム、アラウィー派、ヤコブ・ベーメの神智学、ヘレナ・ブラヴァツキーの神智学運動などが含まれる。

 エソテリシズムはまた、様々な哲学的・歴史的・宗教的テキスト(それらテキスト自身はしばしば主流宗教の中心的テキストである)の隠された意味や象徴性の研究も指す。例えば、旧約聖書とトーラー(モーセ五書とその解釈を含む、ユダヤ教の教典)は秘教的研究対象とされる。(ja.wikipedia.org)

 

 例示されている事柄は、古代宗教からルネサンス、ヒンドゥやカバラ、ニューエイジの先駆的オカルト運動、新宗教などを含み非常に雑多な印象を受けますが、ともかくもこれらはエソテリックな主題として包含されていることから、エソテリシズムもまた、特定の時代の宗教・哲学研究に限定される概念ではないことがわかります。

 ここで注目しておきたいのは、「様々な哲学的・歴史的・宗教的テキスト(それらテキスト自身はしばしば主流宗教の中心的テキストである)の隠された意味や象徴性の研究」という側面です。「オカルティズム」において二重の隠蔽を指摘しましたが、エソテリシズムにおける「隠された意味の解読・開陳」も、この語の現代的な意味を捉え直す上で重要です。語源としての「内奥」は、テキストの主流的解釈に対しての非主流的解釈・暗号内容を指し、それは時間軸上では過去方向に、空間軸上では宗教的小集団、秘儀集団に投影されます。しかし、テキストは常に「再び」解釈され、解読されるのであり、その行為は常に現在にあります。テキストを異化し、無限に読み替え、新たな意味を汲み出そうとする現在的な力動、それがエソテリシズムの熱源であり、エソテリックな場では常に、隠蔽された過去の内奥から、現在という焦点を経て、未来が開陳されるのです。

 

なぜ、隠されているか

 

 オカルティズムとエソテリシズム、隠蔽と解読、知覚と解釈というベクトルをそれぞれ持つ両概念は、当然、深く結合し、相補的な関係にあります。まずは、オカルティズムの「隠す」力動の原理を検討してみましょう。

 オーラやプラーナや霊を感得し制御する訓練体系は、かつては社会一般から「隠された」。その理由のひとつに、「異端思想としての迫害を避けるため」という説明があり得ます。魔女狩りの記憶を残す欧米キリスト教世界では、占いですら「オカルティズム」あるいは「ペイガニズム(異教主義)」として隠匿・保護のヴェールに包む趣深い作法が、確かに存在します。アメリカにおいても、マリリン・マンソンが「公序良俗に反する」ことには違いありません。

 ちなみに現代日本では「引き寄せの法則」「風水」「初詣」「気功健康法」「先祖供養」「星占い」などが「迫害を避けるため」に隠される必然性は殆どなく、氣志團も「やんちゃ」として許容されています。欧米社会で一般的なオカルティズムや占いのモードをそのまま纏っても、日本の文化土壌ではどこかトンチキな装いに映ってしまうのは、「異端」を成立せしめるリアリティの強度差によるものと考えられます。

 また別に、「それが危険な知識、技法だから」隠される、という説明もあり得ます。この説明も、区別するべき異なる位相を含んでいます。それが指す危険は実際的には、社会一般通念を逸脱し、個人の無意識の深みを探索するワークが、個人にもたらす内的危機です。例えば、人格解離をある意味で利用し、制御する召喚魔術の技法を、右も左もわからぬティーンエイジャーに指導して、それを実践した結果精神疾患を誘発した場合、その指導者、サークルは非難、告訴、場合によっては逮捕などがあり得えます。そんなリスクは御免蒙る、というわけで、隠される。このような知識、ノウハウの管理・伝達は必然的に「秘教的」なトーンを帯びます。

 

オカルティズムが扱う危機

 

 一方で、例えば「全人類を洗脳・コントロール可能な超人的オカルトテクノロジー」とか「封印された大悪魔」といった、社会秩序全体を脅かす危機であったり、そこまで大仰でなくとも「マインドコントロール」や「カルマを黒く染める」危険性を仄めかすような物言いも、通俗オカルト誌に溢れています。そのような信念・教義を持ったコミュニティ、教団、秘教的結社などはあり得ますし、それ自体は何ら倫理的な問題を孕むものではありません。しかしながら、それが構造において現代的オカルティズムとして成立するには、相応の説得力を付与するための諸条件が要請されるでしょう。すなわち、時間的な蓄積と、信念の共有規模です。

 例えば、天皇家の新嘗祭が秘儀とされる理由として、国体維持に直接に関わる重大な霊的力を扱っている故に隠されるのである、という解釈に、特に異論を挟む理由はないでしょう。多くの人がそこにやんごとないものを感じ、そう受け止めているのであるから、その霊力は事実上、絶大であり、故に隠されるのです。せいぜいが新興カルト程度の規模でも、そのような遠大な危機を管理している、と主張することは勿論可能ですが、宮中の秘儀においては社会通念が担保している「遠大であるが故に隠される」の「遠大」の部分を欠落したのでは、同じ構造は持ち得ない。ここに留意しておけば、世界の秘密を保持する真正なる秘密結社と、そうでもない人たちとの区別を付けやすいでしょう。

 加えて、もうひとつの危険性について触れておきたいと思います。これは簡単にいえば「反道徳的な結論」に到達する思想の危険性であり、人種差別、専制的エリーティズム、殺人やテロリズムなどを肯定する理論を提供するものです。実践オカルティズムは、神経回路の再プログラミング作業に準えることができます。そこでは、人権概念を含む一切の既成概念が相対化され得るし、ある意味、そうされねばなりません。脳機能学者・苫米地英人氏は、自身が手掛けた元オウム真理教信者の脱洗脳プログラムにまつわる著作で「相対化してはいけないもの」について触れています。人を殺してはいけない、転生論と差別を結びつけてはいけない、そういった「相対化してはいけないもの」が敢えて語られるということは、つまりその禁忌がうまくいけば上手に相対化され、うまくいかなければ極めて厄介な事になる、という実践オカルティズムが宿命的に孕む危機を示しています。

 このことは、科学における核エネルギーの扱いと比較すれば判りやすいでしょう。ある手続きを踏めば、ある結果が得られます。しかしその結果は、文明を支える安定したエネルギー供給源にも、壊滅的な環境汚染をもたらす災厄にもなり得ます。人権概念、もっといえば善悪の概念は、言語的な構造物であり、社会的な合意の蓄積です。それは個人においては「殺してはならない」という最初の不合理、最初の禁忌による束縛に基づいており、その束縛を解くことは、制限されていた爆発的な心的エネルギーを解放する、高度に危険な「啓明」となり得ます。「既存の人権概念、善悪概念とそぐわない結論に至るのならば、それは霊的啓明ではない」という安全弁を用意することもできますが、実践オカルティズムが本来的には「教義」ではなく「体験」を媒介するものであるならば、そのような前提条件を持ち込むことは、あらかじめ宣言された結果しか認めない科学実験を行うに等しく、本末転倒になりかねません。

 人種差別やテロリズムの背景にはさらに複雑な社会-経済的要因があるので、それがオカルティズム・エソテリシズム特有の、あるいは直接に結びつくものであるとは言えません。しかしながら、人類の霊的進化のヒエラルキーを説くエソテリックなヴィジョンが、ナチス・ドイツの選民思想と最終戦争計画を後押ししていたこと、ネオペイガニズムがトライバルな物語空間を再興していく力動と、自由・平等・博愛というモダニズムの思想空間とが、根本的に相容れないことを看過すべきではないでしょう。エソテリシズムにおけるエリーティズムは、それが間違っているから危険なのではなく、それを否定することが難しいからこそ危険なのです。

 今日では、文化-経済的グローバリズムが、そのような「否定できないが、それで本当にいいのか」を問われている命題として挙げられます。実践オカルティズムが、世界の知覚を個体のうちに全面的に刷新する体験を誘発し、そこから導き出されるエソテリシズムが個人の内的倫理を刷新する時、特に精神疾患や社会的ディスコミュニケーション要因が存在しなければ、彼は穏当で、高度に知的な秘教的思想・あるいは危険思想の持ち主として、平和に生涯を全うするでしょう。しかしそれは、そういった思想に開眼するという「危機」を意味するのです。

 

アーカイブ、オカルティズム、エソテリシズム

 

 「秘密の知識」は必ずしも隠され続ける訳ではなく、むしろ20世紀以降、出版メディアはほぼあらゆる領域での秘密教義や秘儀、訓練カリキュラムを刊行し、ライブラリーに収蔵してきました。タロットや占星術は、既に秘密教義とは言えないものとなり、さらに、電子アーカイブがあらゆるものを記録し、共有していく力動は、もはや押し止めることは不可能でしょう。つまり、社会的な文脈においての「オカルティズム=隠秘主義」は、大局としては、発達するメディア環境によって浸食・解体され続けているのであり、それでもなお隠されるものとは、先述の訴訟リスクを抱える秘教的実践サークル、先進技術ラボ、急進的思想、政治運動、犯罪組織や陰謀計画など、公然化することが明確なデメリットになるものに限定されていくでしょう。

 先に、オカルティズムが「隠された知覚」を開くものであると同時に、その技法を「隠す」作法でもある、という二重性について触れました。後者の「隠す」作法については、メディア環境がその領域、作法を全的に刷新しつつあることを踏まえると、今後オカルティズムはメディア環境と融合し、隠された知覚を開拓することに先鋭化していくことが予想されます。その地平で、改めてエソテリシズム(Esotericism,秘教主義)の機能が問われることになるでしょう。

 先述したように、エソテリシズムの現在性は、見たまま、書かれたままのテキストに、書かれていない意味を読み取る思考、または書かれない意味を埋め込む思想・技法にあると言えます。聖書のカバラ的解釈、クルアーンの戒律に縛られない奔放なスーフィの神秘思想、禅問答などがこれに当たります。暗号、暗喩、パラドックスなどによって、言語的・論理的枠組みを異化し、解体し、再構成し続ける衝動こそが、エソテリシズムの本性です。そこでは、「意味」が、エクリチュールの内に、隠されていて、それが「明かされる」。そして、全てが明らかにされた途端に、その内に新たな空虚を、闇を、未知を創造します。それは、情報そのものが持つ再帰的な本性です。

 この衝動は、あらゆるものが記録され、関連づけられ、参照される電子アーカイブ環境を駆動する、根源的な欲望でもあります。エソテリックな異化、変奏、飛躍によって、増大する情報エントロピーの限界を常に超え出ていく。この作用なくしては、情報アーカイブは結局のところ物質的制限を超越し得ないのであり、つまるところオープンエンドな知は、エソテリシズムなくしてあり得ないのです。

 

オカルティズムは、
  語り得ないものへの沈黙に無限に没入していく。
エソテリシズムは、
 語られなかったものを、無限に語り続ける。

 

 自己増殖する電子アーカイブ空間において、オカルティズムが「体験」に先鋭化していくと同時に、エソテリシズムはあらゆるリニアな意味文脈、時間軸すらからも自らを解放していくことが予想されます。かつて書かれた全てが明かされるなら、異化と変奏は「すべてのあり得た過去」と「すべてのあり得る未来」を創造するものでしかあり得ません。ここにおいて、知を規定する時間の地平線は溶解し、「一切が許された」汎魔殿の時代、PanDaemonAeonが、前 人未到の知の領域として開かれつつあるのです。

 

現代オカルティズム

 

 このような文脈において、現代的Contemporaryなオカルティズム、エソテリシズムは、どのような様態で立ち現れてくるのでしょうか。ここでは、20世紀前半と後半にそれぞれ起きた、英国の儀式魔術師アレイスター・クロウリー、そして米国の魔女スターホークという二つの「事件」をもとに、考えてみたいと思います。

 アレイスター・クロウリー(Aleister Crowley, 1875-1947)がマンツーマンで弟子筋に伝授した「セレマ」思想、そして「銀の星団」の秘密教義は、20世紀前半に勃発したモダン・エソテリシズムの最も鮮やかな例と言えるでしょう。それはエジプト神話の、19世紀末ヨーロッパのヘルメス主義的カバラの、儀式魔術の変奏であり、それらの内に隠された新たな「意味」を編集・開陳するものです。その中心には、霊的存在アイワスによってもたらされた自動筆記文書「法の書」があり、その分析・解釈は「禁じられて」います。

 解釈を拒む永遠の暗号からは、ニーチェ的・ラブレー的な「蕩尽」に彩られた自己滅却の哲学が、太陽中心(地動説)的視点によるイニシエーションの変奏が、外なる団と内なる団の止揚が、再帰的な意味解釈の永久運動によって無限に汲み出され、個々人の生涯を通じたドラマとして展開します。それは、永遠の謎を介して繋がる、孤独な霊的共同体の方法論であり、無限の未来に開かれています。クロウリーの「事件性」は、エソテリシズムの源を「過去」から「未来」へと転じた点にあり、それは天動説的オシリス神話を地動説的なホルスの新・神話に置き換え、同様の相転移が未来において同様に、無限定に起こり得るという時間論(AEONIX)を導入することによって、実践オカルティズムを無限の変奏へと開いたということです。

 クロウリー自身がこのパラダイムシフトを「科学的啓明主義Scientific Illuminism」と呼んだのは、現代においては些か古色蒼然とした響きにも感じられますが、だからといってポストニュートニアンな科学思想において無効となる要素は含まれていません。神格、存在の神秘は、無限小の点と無限大の円周という極度に抽象化された、ミニマルな幾何学にまで徹底的に還元されており、この基本的な世界観は、少なくとも物理学における大統一理論の構築までは、色あせることはないでしょう。

 クロウリーの書き残したもの、弟子達に伝授した修行体系には、16世紀英国のジョン・ディーが書き残した天使魔術、いわゆるグリモア - 召喚魔術、カバラ、タロット、占星術、地占術、易の統合、ヨーガなど、多種多様なオカルト的技法が詰め込まれていますが、それらは全て新時代の魔術哲学「セレマ」の認識に収斂していく予科練に過ぎないと言えます。いわばクロウリーは、セレマ的エソテリシズムによって、ルネサンス的ヘルメス知と19世紀末デカダンス、当時興隆した社会科学と自然科学の成果を集合し、変奏してみせたのであり、モチーフとなる個々の主題ではなく、その狭間 に鳴る「響き - Thelema」こそを内外の団に伝承されるべき核心に据えるという、オカルティズムの構造改革を行ったのです。クロウリーは、60年代日本のフリージャズサックス奏者・阿部薫が「聴こえない音」と呼んだ「語り得ないもの」を求心力とするオカルト結社の方法論を打ち立て、それを開放系の未来へと接続した、希代の編集者 - エソテリシストだったと言えます。

 一方で、1951年生まれのスターホーク(Starhawk)は、商業出版され公開されたガードナー流魔女宗「ウィッカ」の関連書籍に触れて、実践オカルティズム、復興魔女宗(Wicca)の道に入った現代魔女です。ガードナー派ウィッカの核心部分にアレイスター・クロウリーの仕事が組み込まれている点からも、彼女はクロウリー-ガードナーによりエソテリックに異化・変奏された20世紀後半の情報空間からスタートした、読者世代です。彼女の著作や活動に「秘教的」な解釈、隠された、新たな意味の開陳という要素は皆無です。そこで語られるアストラル界、エーテル体、力の円錐といった概念は、心理学や各種セラピー技法とあわせて編集・統合されたものであり、もはや「秘教的」と呼ぶにはあまりにも一般的な諸概念、感覚と重なっています。

 スターホークは、かつては秘儀参入者たちが保持した「秘密の教え」を、明示的・暗示的に「自然な感覚」に還元し、その「自然な感覚」の場こそを現代文明において「隠された」心的秘密の領域であるとして、フェミニズム、芸術、アクティヴィズムへの散開戦術を指揮しました。すなわち、スターホークのテキストは、そこから隠された意味を汲み出すエソテリックな対象ではなく、その秘教的解釈を断ち切った場からの率直な実践によって、アストラル、力の円錐、神々や精霊たちといった「隠された」知覚の投影対象を自ら紡ぎ出していく、オカルティックな媒介なのです。

 いうなれば、スターホークが目指したものはエソテリシズムなきオカルティズムです。本稿が見据える現代オカルティズムの視座もまた、ここにあります。それは勿体ぶった解釈や条件付けを排し、率直に見えなかったものを見て、聴こえなかったものを聴き、隠されていた世界を開き、語り得ないものを語り得ないままに共有して、多元的な様態に自ら散開していく力動です。それは「秘教」ではないが「隠されて」います。そして、一般的な社会通念の枠組みでは捉えることのできない知覚を解放しつつ、その解釈の無限ループを断ち切り、語り得ないものを語り得ないままに共有する実践コミュニティを通じて、人的・情報的ネットワークを自律生成していく、オカルト文化戦略だったのです。

 クロウリーによるエソテリシズムの拡張と、スターホークによるオカルティズムの散開戦術は、20世紀後半の欧米文化潮流に計り知れないインパクトを与えました。現代エソテリシズム / オカルティズムはクロウリー以降、スターホーク以降のPeriodとして捉えることが可能でしょう。この二つの「事件」が、秘儀の神殿を個人の霊的逸脱と挑戦の場に変容させ、個人の霊的探究の道を暗示的・共時的ネットワークに接続し、サイケデリック、サイバネティクスを経由したグローバルスピリチュアリズムの場を準備したと言えます。

 

オカルティズムの身体 - 秘密結社

 

 知覚の拡張は、向精神薬や魔術・呪術の独壇場であった訳では勿論なく、科学、特にメディア技術の主命題でもあります。我々は常に留まることなく、天体観測から地球と太陽系のかたちを知り、月面のアポロから球状の地球を視認し、微生物を発見し、磁気嵐を観測し、活字が思考を、テレビ・ラジオが空間を、インターネットが脳の情感をシームレスに接続してきました。量子コンピューティングや人工知能による技術的特異点(シンギュラリティ)が具体的なテーマとなって論じられる現在、古式ゆかしい秘密結社が保持する秘儀や修行体系が、Googleよりも多くのなにかしらを明らかにすると断言することは、早晩できなくなりそうな勢いです。

 それでもなお現代オカルティストが悪魔を召喚し、天使と交信し、シジルを描いて願望を達成しようとするならば、それは必然的に「何を得るか」ではなく「どのように得るか」に照準したものとなります。情報ではなく体験を、結論ではなく問いを、解釈ではなく出来事を求めること。その倒置の思考は、オカルティズムとその身体である秘密結社との関係性にも当て嵌めることができます。

 もはや何も隠し得ない世界で、どのような秘密結社が可能でしょうか。全てが書き記される世界で、いかにして「語り得ないもの」を共有し、運搬するか。現代オカルティズムの実践手段としての秘密結社、また、秘密結社を成立せしめる知的枠組みとしての現代オカルティズム、という倒置を反復しながら、コンテンポラリーな秘密結社像をイメージしてみたいと思います。

 

現代オカルティズムの諸相

 

陰謀的オカルティズム
 ここでは「社会をコントロールする裏の仕組み」というアイデアが、隠されたものとして共有されます。秘密結社やグローバル資本の陰謀、広告やメディアメッセージに込められた暗喩、その意図が「隠され」ていて、その解読の鍵を共有するオカルト共同体、あるいは何らかのかたちで陰謀の主体となるオカルト共同体が立ち現れます。

心身的オカルティズム
 ここでは「通常には知覚されない」、あるいは一般通念として概念化されていない様々な心身的機構、変性意識状態において立ち現れる様々な知覚の様態が「隠されている」ものとされ、その体験を誘発する教義・技法が共有されます。しかし、その技法自体は「隠される」とは限らず、広く公開されることもあり得ます。すなわち、必ずしも秘密結社の形態をとる必要がありませんが、事故や精神疾患、性的逸脱といった実際的なリスクを管理するために、部分的にでも秘密結社の形態をとることが多いでしょう。

思想的オカルティズム
 ここでは思想そのものが「隠され」ます。それは高度な科学的知見に基づく新しい思考のパラダイムであったり、政治的革命理論、選民思想や終末思想といった攻撃的・破壊的な思想であったりもします。本稿で論じてきた分類に準えれば、エソテリシズムに主軸が置かれたものですが、エソテリックな思想の理解・共有の方法論として、段階的な知識の教示や参入儀式が援用される場合に、その手法は「隠され」、その会得は一種の啓明として「体験」されるよう、デザインされます。

さらに、これらオカルティズムの身体となる結社の類型を2軸に配列してみます。

創発的秘密結社
 これは、才能ある者同士が集い、自然と秘密結社的な様態に至るものです。知性や行動力、あるいは財力など、平均から飛び抜けた水準にある個人同士の意気投合、計画、倫理などは、一般に理解されにくく、また理解させる必要もない、といった理由から、結果的に秘密結社となるケースです。多くの秘密結社がこのような「創発的」状況から発足しますが、結社の継続維持の段階になって、創発的な人間関係から教義・ルールによる運営へと重点が移行します。稀に、体系的な組織形態に移行せず、初期メンバーの創発的な関係性によりトップダウン式に継続運営される場合があります。急進的芸術家グループ、英国ケイオスマジックやネオペイガンの小グループ、性的コミュニティなどが該当します。

政経的秘密結社
 政治的・経済的目的のために組織される、合法・非合法の結社。政治的目的のための組織が、公然の組織となるとは限りません。公然と知られたくないプロパガンダ活動や、社会的階級や利権、血統などによる暗黙の階層化、あるいはイニシエーション儀式による結束など、様々な理由で部分的に公開・非公開の形態をとり得ます。幕末に興隆した天狗党、多企業に跨がる学閥やゼミナールなどが該当します。

宗教的秘密結社
 宗教儀礼を保持し、イニシエーション儀式や年間の祭礼を執り行う結社です。多くの場合、宗教儀礼の共同体的効力は、その時間的蓄積と不可分です。根本的な要素を変更することなく、どれだけ長い期間継続されてきたかが重要になるので、独自のイニシエーション儀式や、オカルティック、エソテリックな祭礼体系を考案するのは才能あふれる先駆者がリーダーシップをとって行いますが、それを継続するのはまた別種の能力、人材が担います。フリーメイソンやライオンズクラブといった国際友愛結社、「黄金の夜明け団」や「光の侍従」「東方聖堂騎士団」「ウィッカ」諸派など、発足から一定の期間が経過した秘儀結社、土着信仰結社、修験道や民間講などが該当します。

犯罪的秘密結社
 犯罪目的のための結社。違法な資金、禁制品の取引、組織売春、恐喝や暴力行為を隠蔽する秘密組織です。血なまぐさいイニシエーション儀式や裏切り者への制裁の掟、連帯責任や相互監視のための秘密の共有といった、恐怖、束縛、服従と、それに見合う報酬のバランスシート上で成立します。ヤクザ、マフィア、暴走族などが該当します。

 


グローバルメディア時代の秘密結社

 

 この他、グローバルなインターネット環境の発達に伴い、新たな形態の結社 - コミュニティが多発しています。ここでは詳細に立ち入りませんが、ハッカーグループのAnonymous、AutonomatriXに端を発するオンラインを中心としたオカルトコミュニティなどは、オンライン・ネイティブな結社の形として注目に値するでしょう。また、オンラインゲームでギルドを組織し、Ingressで物理空間を此方/彼方に塗り分けていく、ゲーム世代の組織オーガナイズの方法論は、社会的現実に不可視の新たなレイヤーを重ね、ネットワークを成長させていく実地訓練ともいえ、これからはゲーム/神話/秘密結社の空間は代替現実空間 Alternative Realityとして、ますます融合していくと思われます。彼らデジタルネイティブ世代が、どんなイニシエーション儀式の方法論を、符丁を、神話と絆を紡ぎ出していくのか、とても楽しみです。

 

オルタナティブリアリティ生成装置としての秘密結社

 

 秘密結社は、人類史と同じくらいの時間的蓄積を持つ普遍的な文化であると同時に、様々な時代・社会・文化状況に対応して、無数のバリエーションがかつて生まれ、これからも生まれ続ける、現代的Contemporaryな文化でもあります。隠されたもの、語り得ないものを介して人と人が関係性を結ぶ秘密結社は、時の権威や常識、あらゆる「語られたもの」に挑戦し、あるいはその抵抗をかいくぐりながら、新たな思想、芸術を育む子宮として機能し、新時代の嬰児を秘密裏に社会に送り込むことで、文明の発展に寄与してきました。

 私自身が参入したある魔術的友愛結社では、「真の団は一つ」というモットーが継承されています。これがどういう意味かは、明確な説明は与えられていません。あらゆる秘密結社はイルミナティの下部組織である、というような、壮大な陰謀ロマンとは程遠い、しかしそれなりに伝統を持ったスピリチュアルな共同体で与えられたこの謎掛けのような一言は、私の生涯続く思索の主題となるでしょう。フリーメイソンなど友愛結社を指す英語Fraternityは、語源的には兄弟団、友朋団といったニュアンスであることを踏まえると、真の兄弟団は一つ、と言い換えることができます。人類の、たった一つの真の兄弟家族の絆は、如何にして可能か。現時点での私の理解としては、対立する派閥ではなく、あらゆる困難を越えて結ばれる絆への、止み難い衝動から生まれたどんな結社も、本質的に志を同じくする「一つの団」なのだ、と思います。

 当たり前ですが、100年以上の伝統を持つ結社や、国際的な団員規模を誇る結社だけが、価値ある真正な結社という訳ではありません。どんな結社も、最初は二人か三人、あるいはたった一人によって、「今、ここ」で発足するのです。そしてそれが「真の団」ならば、生命史に等しい過去と未来を、団の財産、あるいは任務として、既に継承しているのです。そのような「連なり」を感じとることは、誇大妄想に過ぎないのでしょうか?

 「真の団」についての謎掛けは、それを受け入れる者の心の深くに、ある種子を植え付けます。その種子が成長して、何ものにも挫けない強い意志と確信の果実を実らせるか、抵抗し難いまでに強い妄想と傲慢の果実を実らせるかは、自分次第、運次第であり、その種子を自らの内に受け入れること自体が、非常に危険な賭けでもあります。そして「真の団」という危険な種子を真摯に成長させていくと、いつしか、それが存在するか否かではなく、それを為すか否かの問題となっていることに、あなたは気付かれることでしょう。その時、あなたは現実に翻弄される放浪者ではなく、自身の現実を創造する魔術師となるのです。


 

 

 

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