Chaos Vision ML [2003]
実践体系としてのケイオスマジックを、神経力学的格闘技、Neuro-dynamic Martial Artsと捉えてみる。
GDにしろテレマにしろウィッチクラフトにしろ「やってることは同じ」という観点からそのスキームを抽出し、実際的で体験的な作用と作法を特定の象徴体系や宗教的倫理的方向づけから分離して応用技術として扱おうとする時、「では何により、何にむかうのか」として問いなおされる心的・霊的空白を満たすとりあえずの回答、心理的な了解のために、武術というメタファーは具合がいい。
武術といっても、実際に闘うことを第一義にとらえる種類のものではなく、日本的な「武道」の意味合いが強い。弓術や合気道、柔術などには、闘いの技術から昇華された精神鍛練といった側面が強くある。ケイオスマジックも神経回路の新たな使用法を通じ、繊細な感性、拡張された行動力、人格の向上を目指すものとして真摯な鍛練に励めば、この手の道についてまわる誇大妄想、自己欺満、宗教的近視眼を回避し、また自身の上達度を客観的に計りやすい。武道は実際的であれ疑似的であれ、究極的には生と死の狭間に覚醒的に歩みよることである。マジックを、これを神経回路(※)のレベルで達成しようとする目論見であるとすれば、その「行」になにが必要で、なにが不必要かは、各々の目的意識のうちに自ずから明らかになる。
(※)
大きくは精神、魂、霊などの概念を含む「自己」であるが、ここでは武道になぞらえることで得られるメリットを確かなものにするため、まずは身体性を強調したいと思う。翻って武道などにおいても、心・技・体として包括的に捉えられる身体イメージは単純な肉体的・物理的範疇を超えた概念を扱う。
ケイオスマジックを抽象化された「道」として捉えることは、あるいは奇妙に写るかもしれない。Result magicとして端を発したこの精神潮流は、徹底した身体感覚の強調と結果主義で彩られている。しかしまた、日本人の感性からいえば、敵の骨を砕くことや的の中央に正確に矢を射ることのみが「具体性」や「実際性」ではなく、身体・精神・場を含む「ありのまま」の静寂のなかに究極的な具体を見い出す「道」の感覚は、身近なものである。「行」の積み重ねが「道」となり、道はそのままTAOに通じる。闘わずして勝つ武術の師範の具体性こそが、我々日本人がケイオスマジックに透かしみる「透明な魔術」の幸福な到達地点であり、あるいはさらなる深化、拡張の足掛りですらあり得るだろう。核の光をDNAに焼き付け、神が人に降格する瞬間を目撃しながら、なおあらゆる微細さに八百万の神々を見い出す日本人の感性、禅の精神が、ケイオスマジックというアティテュードと共振する時、そこにまったく新しい時代精神の発火を見い出すことは、「日本人」や「西洋魔術」といったカテゴリーを超えでる真に実践的・具体的な行の獲得・道の探究の豊穰へと繋がっている。
さてでは、ケイオスマジックで援用されるテクニックを「神経武術」の行として翻訳するならば、まず着眼すべき要素はそれほど多くない。
Motionlessness 不動
Breathing 呼吸
Not-thinking 無為
The Magical trance 離脱
Object Concentration 集中
Sound Concentration
Image Concentration
Metamorphosis 観相
(P.J.Carrol,"Liber Null"による)
日本語は、極力シンプルにかつ雰囲気を捉えるために適当にあてたもの。その意図するところは追って説明する予定である。ここで列挙されている基本的な行は、魔術のみならずあらゆる身体・精神鍛練の体系で援用される普遍的な基本要素である。それ自体は、神秘的な奥儀でも壮絶な超人技でもない。まずは自身の身体と神経回路を丁寧に観察し、その扱いを熟知する、それのみが徹底されるべきであり、特定の象徴体系で組み立てられた壮麗な神学的ビジョンの梯子を昇りつめることを到達目標と「しない」、「道」としてのケイオスマジックにおいては、この基本的な要素が必要にして充分な行の全てである、ともいえる。集団儀式やシジライゼーション(印形化)などの「応用法」は、各々の行の内化・深化にしたがって探究すればいいのであって、あらかじめ規定されたケイオスマジック特有の「課程」は存在しない、という立場からのみ、開かれた「道」としてのケイオスマジックを論じることができる。
魔術の訓練は、特別で奇異な事柄からは始まらないし、始められない。また、修練の結果として特別・奇異な様相に達するのであれば、その修練はまったく無用無価値なものであったとみなし全てを破棄すべきである。(もちろん、片方には風狂といった境地もあるが。)様々な武術、芸道、禅の師範たちが信頼に値するかどうかを見極める尺度のひとつは、その静けさにある。魔術とて例外ではなく、また魔術なればこそ、この静けさは重要である。神学から離脱し、荘厳な象徴の神殿から一歩身を引き、簡素な庵に籠ってケイオスを観じる神経回路の武芸者は「真実はなく、全ては許されている」という公案をプラスマイナスゼロの境地で我がものとするべきである。ケイオスは無色透明である。
もちろん、ノーシスや8カラーズ、マジカルコンバットといったP.J.CarrolやIOTに特有の用語、テーマは存在するが、それらはNeuro-Dynamicsとしての魔術修練においては究極的には不要なものであり、上級編、ですらないといえる。自身の身体/神経ハードウェアを熟知し、扱いを洗練させ、神経的・魔術的操作によってのみ到達しうるある成果・得心を体験するというシンプルな目標設定こそがケイオスマジックの要であり、それであればこそ広大な可能性と自由な創造性がそのマジックに内包されている。
以下では、自身の経験と交流のなかで得た自分なりの実践の手引きを項目ごとに論じていく。上記6項目の基礎身体訓練に続き、ノーシス、シジル、コンバット、8カラーズ、フリースタイルリチュアルなどケイオスマジック界隈の話題も取り上げ、またカオス数学の発見、W.S.バロウズの言語ウィルス論、CHEMOGNOSISなどと称される生化学的アプローチ、カウンターカルチャーにおけるケイオスカレントなどの文化論的考察なども射定範囲に捉える予定である。筆が遅々として進まないであろうことは容易に予測されるし、最終的なボリュームや深さもどうなるかわからないが、書く側も読む側もひとつの試論として軽く楽しんでいけたら、もらえたら幸いである。あと文体もころころ変わるかも。ご愛敬&ENJOY!
Motionlessness、これは強靭な意志によって「動かないこと」が強調されがちだが、動かないためにはどのような状態である必要があるか、また動かないことでどのような到達を目指すのか、そこを捉えることが肝要だ。以下は、あくまでも私個人の経験に基づく考え・実践例として述べる。身体感覚は個人差があるので、私の記述はあくまでも一例として、自分自身の身体感覚をつかんでいくことを主眼として読み進めて欲しい。また、これらはいかなる意味においても教則テキストとして意図され書かれたものではない。また、各種疾患、情緒不安定などがある人は、実践の参考にする際にも自己責任で、慎重に扱って欲しい。いうまでもなく「書いてあるとおりにやったらこうなった、どうしてくれる」といった類のクレームは一切受け付けない。ツッコミ、各々独自のアイデアなど広く求む。
動くということは筋肉が緊張するということだ。動かないということは筋肉が緊張していないということ。ヨーガでは「死体のポーズ」という全身を弛緩させてただ仰向けに横たわる姿勢があり、ヨーガのワークショップなどではセットとセットの合間の休憩に行われることが多い。「動くまい」という意志は筋肉を固定するというイメージにつながり、かえって筋肉の緊張を招く。緊張した筋肉は遅かれ早かれ必ず動く。Motionlesssnessは「動くまい」という意志ではなく「なにもしない」という放棄、死体のような無関心さを維持する意志によって達成される。以下の記述も、仰向けに横たわった状態を前提に書き進める。
四肢の筋肉を弛緩させるには、注意深く各部位を意識し、丁寧に微妙に「力が抜けた状態」を探すことから始まる。40~60kg前後、あるいはそれ以上の重量を絶妙なバランスで直立させ、また骨格間接で連結させ弾力性のある皮膚で覆い包んでいる肉体は、日常的な形態を維持するために無意識だが全面的な筋骨格の緊張と皮膚の張力によって支えられている。丁寧に全身の筋肉を弛緩させはじめると、重力に引かれて思いも寄らない体位、フォルムに体が伸びていくのが体験できる。
特に顎、耳の後ろ、頭頂部などを完全に弛緩させると、顔のかたち、表情が大きく変化する。顔はアイデンティティ、自己イメージと大きく関わっているので、これが意外な方向、形態に柔らかく変化していくのは面白く新鮮に感じられるだろう。逆に、日常的に営業スマイルが張り付いている人、表情を抑制しがちな人など自己イメージに強い固定観念がある場合、この部位の弛緩はより難しく、よりダイナミックに感じ
られるだろう。観察と働きかけによって自己イメージや身体感覚が変容していくというプロセスは、後に触れるCarrolが述べるところのMetamorphosisにも関係してくる。
耳の周囲の筋肉も意外に働いている。これを意識し弛緩させると耳孔が自然に拡張し、全指向性マイクで拾っているかのように周囲の音が鮮明に聞こえる感覚がある。
目は完全な弛緩状態でしっかり閉じるか、閉じ切らないで半眼状態になるかは個人差があるようだ。眼球の筋肉を弛緩させるにはあたかも目という器官が存在しないかのように「忘れて」しまうのがいいが、半眼状態だと視覚情報が入り続けるので、部屋を暗くするなどの工夫が必要だろう。顔面のマッサージなどで皮膚、表情筋を柔軟にし、まぶたが弛緩して閉じきるように顔面のテンション分布をつくりかえることもある程度は可能だ。生命は柔らかい。
腰、骨盤の部位は、足をまっすぐに投げ出した状態では若干前倒しの状態、背骨の付け根のあたりがアーチ状に反るようなかたちになる。この状態でも安定することは可能だが、テンションが気になったり不安定になる場合には、膝の下に足枕を置き、骨盤が水平に、背骨が床に密着するようにしてもよい。特に腰痛がある人はそうしたほうがいいだろう。
丁寧に各部位を弛緩させていくと、筋肉、軟骨が軋むような音をたてて、重力に引かれて「落ちていく」のがわかる。この時姿勢はどんどん変化していくので、随時より快適に、よりテンションが低くなるように位置を調整する。筋肉、骨格のテンションだけではなく、皮膚のテンションも意識して取り除いていく。Motionlessnessの目的のひとつは、体の各部位から脳に送られる知覚のパルスを限りなくゼロに近くなるよ
うにし、あたかも体を忘れさってしまうような状態を生み出すことだ。姿勢は安定しても皮膚が常に引っぱられていると、この信号は受信され続け、最終的にはある種の麻痺のような感覚となる。なるべく麻痺ではなく、無信号の状態のほうが都合がいいので、ていのいいところで妥協せず丁寧に体位を調節してみよう。
完全にテンションが取り除かれると、普段こんなふうには伸びきることのない筋肉が不随意的に小さな痙攣運動を起すことがある。これはしばらく放置すると収まるので、動揺せず、体の声に耳を傾け、存分に語らせるように心地よく観察してみよう。
体の各部意で重力のベクトルを感じる。手足の指先、内臓、眼球、舌、歯など、微細な部位にかかる重力を意識し、引かれるがままに落ちていくよう感じる。全身が均一な重力分布で地球に中心に落ち込みきっている状態を探し、堪能してみよう。
首、顎が弛緩して重力に引かれて自然に位置が動くとき、気道が圧迫されると感じるかもしれない。首の下に適切な高さの枕を置き若干顎があがるようにすれば気道は広く確保されるが、息苦しくならない範囲内で、重力に引かれるにまかせて喉が「落ちていく」感じを追跡してみると、日常的な呼吸運動には腹筋、胸筋に加え喉の筋肉も使用されていることがわかる。この筋肉を弛緩すると気道は若干狭まり、普段喉の前面まで広げられている気道がより延髄の側、奥のほうに押しやられ、息はより細くなる。喉は収縮しない筒状の通路となり、呼吸は腹筋、背筋と胸筋の半不随意的な運動によって継続される。
ヨーガの呼吸法に喉の奥から頭頂部めがけて細い息を通し、通常の気道とは異なるより精妙な気(プラーナ)の通路、スシュムナー管を意識するというものがあるが、喉の弛緩によって喉のより奥のほう、より細い呼吸の道をみつけることができる。
この状態では呼気、吸気というアクションを「忘れる」ことができ、空気が勝手に肺に入り、また出ていくというイメージで呼吸が継続される。全身の弛緩とはいえ、呼吸に必要な運動も弛緩させてしまうわけにはいかないが、これを限りなく不随意的に、無意識的に行わせることができる。死体のように放置されつつ、自分が呼吸しているのではなく、空気、エーテル、プラーナ、なんでもいいが生命力が自分という袋に自在に出入りしている様子を感じてみよう。
さて、このように身体から感覚のパルスが消失すると何がおきるか。それは各自やってみて体験するのが一番だが、私の感覚では、脳は体が消え去ったものと感じて軽く混乱し、脳内で「ブーン」というフィードバックノイズのような音、耳なりのような音が急激に大きくなる時がある。こうなったらしめたもの、その状態から重く沈み込んだ体を感じながら「えいや」とばかりに寝返りをうつなり、起きあがるなりを試みると、重い体をすっぽ抜けていわゆる幽体離脱状態となる。いいかえれば肉体からの信号を失った脳が自己同定感覚を失い、体は寝ているのに意識は立ち上がっている状態、などの「錯覚」を引き起す。時には軽い錯覚のような感覚にとどまり、また時には(慣れてくれば)離脱した意識であちこち移動して物見遊山を楽しむことも可能だ。これは大変面白い体験なので、Motionlessnessの到達目標として設定して挑戦してみることをお勧めする。一連の手続きは完全に身体感覚の操作のみによるので、神秘的・宗教的な感動を求める向きにはそっけなく感じられるかも知れない。肉体を離脱した状態でどのようなビジョンが訪れるか、普段みなれた風景が幽体(Astral body)の目でどのように見えるか、面白い実験は尽きない。
最初のうちは筋肉の弛緩とともに眠り込んでしまうこともあるかもしれないが、身体感覚への注意、好奇心、楽しみながら丁寧に観察するというこ心もちによって、意識は力まず明晰に保たれる。幽体離脱状態に移行するためには体は眠り意識は明晰である必要があるが、これは何度も繰り返し挑戦してコツをつかむほかない。毎日の就寝時にこれを行い、そのまま寝入るなり夢見状態に移行するなり、なりゆきにまかせてあまり気負わずに楽しみながら習慣的に練習するのが一番だろう。
身体との対話は、あらゆる先入観、希望的観測、不安や恐れを排して子供のような正直さと率直さで行うべきだ。意識と身体がお互いに希望を押し付けあい、疑りあい、騙しあう場所に、明晰はない。
通常の夢見の状態、幽体離脱状態、明晰夢の状態、また後に触れるかもしれないAstral ProjectionやPath workingの状態は、どれも微妙な差異があり、知覚領域・様式のグラデーションが形成されている。あまたの象徴体系や魔術理論に頭を突っ込む前に、具体的な身体感覚を確かな足掛りとして様々な「錯覚の技法」としての知覚の変容を楽しむという姿勢で望むほうが、心身の健康にも、魔術的視野・行動力にとっても得るものが大であると、個人的には考える。
(参考文献などは、後にまとめて紹介する予定です。)
いか、つれづれなるままに。
魔術における身体訓練の目的とは何であろうか。
現代における魔術をクロウリー/フォーチュンの定義にそって「意志によって意識に変化をもたらす技術」とすると、それのみについて極言すればそこには身体が介在する必然性はないといえる。オウム事件で嫌なニュアンスがついてしまったチベット密教の死の技術、ポアは、自身の死に際して西洋魔術でいうアストラルプロジェクションを行い「覚醒的に死ぬ」技術であり、その作業は肉体が生命活動を停止する直前からそれ以降を本分とする。これなどは純粋にアストラル的というか霊魂的というかともかくも想像力と意志の技術であり、本質的にはいかなる身体操作にもとづくものではない(肉体が死んでからが勝負なのだから!)。
しかしまた修行僧が行う生前のポアの修行は坐位と調息にもとづくハードな身体訓練そのものである。死の瞬間の肉体的ショックを生前に繰り返し疑似体験しておくことで、いざ本番となった時に慌て取り乱すことなく予定どおりに死の段取りを進行できる、という意義に加え、頭頂部から意識を抜き出す行では強烈な身体イメージや「ヘック!」というしゃっくりにも似たかけ声など、かなり体育会ノリの身体訓練が行われる。この修行を行う修行僧は頭頂部がこんもりと盛り上がり、血豆ができるそうである。
チベット旅行の経験もあるPeter J. Carrolは、"PSYCHONAUT"でFinal Enchantmentとしてポアのケイオスヴァージョンのような簡潔なストーリーテリング・あるいは心意気に触れている。死に瀕した存在に対して口頭で、あるいはテレパシックなイメージで、源初のライフフォースへの帰還、融合を選ぶにせよ、新たな輪廻転生を選ぶにせよ、恐怖することなくDo what thou wilt、と呼びかけるわけだが、私は個人的にこのエモーション、心意気こそがケイオスの、あるいはCarrolの魔術世界の真髄にあると捉えている。
生命あるものは必ず死に、死に小細工は通用しない。死に際して、自身が語りかける言葉は絶対的な覚悟、責任、意志が伴うはずだ。緻密に練り上がられた神学や魔術的世界観、足したり引いたりして帳尻があう象徴体系などは、自身や他者の死に対して究極的には何の意味も根拠も与えてはくれない。また、死という絶対的な体験・出来事を後づけの象徴だの特殊な術語だので飾りたてることは究極の不躾・無責任ともなりえる。Carrolの冷徹なシニシズムとLiberationの思想はこの死への視線によって貫かれることによってはじめて真摯なメッセージとして一考に値するものとなりうるのであり、真摯に死をみつめることなく口先で唱えられる"Everything is permitted"などのお題目ほど悲しいものはない。死に惑うことなかれ、死を惑わすことなかれ。しからずば汝、生きること能わざるなり。
先の投稿で魔術を武道に準え、生と死の狭間に覚醒的に歩みよること、と述べた。その観点から、魔術的な身体訓練を生命体としての自己の観察、さらに直接にいえば自己の身体の観察という側面(覚醒)と、観察され把握された身体の高精度な操作・拡張という側面(歩みより)が浮かび上がる。
しかしまた観察と操作という区分にしても、観察者と観察対象、オペレーターと操作対象が同一である場合、ことさら自分を実験対象として客体化しすぎても得るものは少ない。解剖学は生体を個々の機能に分解し、生命そのものの所在をいまだ捉えられずにいる。
ある舞踏の流派では、徹底的にムーブメントを客体化して把握しつつ、段階的に「動かす」から「動く」、そして最終的に「なる」という感覚を捉える稽古を行う。歌でも踊りでも、歌い方や踊り方を知っているという感覚と、歌う、踊るという感覚は決定的に異なるものである。歌い方を知らなくても人は歌う。歌おう、踊ろうとする努力と、歌い手なり踊り手なりに「なる」こととの間には決定的な断絶がある。
Carrolは意志Willと知覚PerceptionをキアKiaの2相とし、翻ってWillとPerceptionの統一体としてKia、ケイオスから現われ出る存在のエッセンスを表現する。
意志と知覚の統一という境地の得心は、論理構築でも思考実験でも緩慢な瞑想でもなく、たとえば舞踏における「なる」といった直接的な体験の場にこそ現われ出るものであろう。それは理論ではなく体験なのだ。
ひらたくいえば身体を、自分を、世界をありのままに観て、よく知ることである。身体はいまここにある。911は自作自演かもしれないし、人類は月に降りたってないかもしれない。しかし身体はいまここにあり、確かな世界と関わっている。だからこそ、自身の身体を獲得し、体験を自分自身のものとしなければならない。誰であろうと、なにであろうと、それを譲り渡してしまえば、魔術はない。
(身体感覚の獲得・操作には、その主導権・主体性をめぐっての危険な側面も存在する。オウム真理教、チャールズ・マンソンなど、多くのカルトが「体験」を重視し、様々な身体技法の体系を持っていたことを、熟考するべきである。)
先日翻訳が出版されたキャロル「無の書」収録の「MMMの書」では、魔術の基礎訓練として提示される5つの教程に関して下記のような訳語があてられており、先に私が提示した語との関連から私自身の視座を補足説明できると思うのでここに並べて比較してみる。
(原書) (国書版) (BANGI意訳)
Motionlessness 静止 不動
Breathing 呼吸法 呼吸
Not-thinking 非ー思考 無為
The Magical trance 魔術的トランス状態 離脱
Object Concentration 物体凝視 集中
Sound Concentration 音への集中
Image Concentration 心像への集中
Metamorphosis 変容 観相
逐語的な訳としては金尾氏による国書版の語句が至って真っ当であり、BANGI意訳は私の重要視するポイント、あるいはキャロルの提示する概念さえも批判的に読み替えていこうとする私の思惑をはらんだものであることを一応断わっておく。特に、キャロルに対して私が持ち込んだ読み替え、差異、ずれが明確なのは「魔術的トランス状態/離脱」と「変容/観相」の2点である。tranceに関しては文化人類学などで「精神離脱状態」などの訳語があてられることもあるのでまーよしとして、Metamorphosisが何故「観相」なのか、説明する必要があるだろう。この点に関しては、キャロルの記述ははなはだ不充分であると批判的に捉えているのである。
キャロルのいうところのMetamorphosisは、
「変容(メタモルフォース)とは心を自分の意志によって再構築することを意味する。」
(無の書/国書刊行会/P29)
とし、あらゆる概念、特にそれに対する感情的反応の2元性に言及する。すなわち、
「それゆえ、心を再組織化するにあたっては、潤達さ、喜び、信心深さ、優雅さ、あるいは多才さといった美徳を高めようとする場合、それらとは逆の、頑迷さ、悲しみ、罪深さ、道徳的な過ち、無能さと関わることなしに済ますことはできないのである。」
これはこれで深遠というか荒くれ者の単純だが鋭利なナイフのような硬質な哲学の匂いが魅力的なのだが、この手の単純な相対化が過剰に強調された上で「心の再組織化」を奨励される少年少女たちの困惑と困難についても検討するべきだろう。
キャロルにおいては心はある種の半自動的な機械機構として捉えられており、これの制圧、制御(Psy-bernetics)するということがキャロルの魔術の主題に置かれているのだが、これはひとつの設定にしか過ぎないのであって真に受けると損をするある種の文学的リップサービスと捉えるべきだろう。心/情動のしくみについては英国の変人のカッコいい物言いで満足する必要はなく、各種心理学から東西哲学・神秘学を含む広大なリソースマップを展開したうえで各々探究と発見の旅にでればいいのであって、2元性どころか3元性4元性10元性と広大な複雑性の大海へと漕ぎ出してこそPsychonaut(心霊飛行士て訳語、クールです)の面目躍如であろう。
なにゆえキャロルは作業基盤として2元性Dualityに固執するのかを考えてみると、Magical tranceとの補完的に対をなす関係、というものが透けてみえなくもない。すなわち不確定で潜在的な可能性の海、ポテンシアあるいはキアへのダイブがケイオスマジックの「ケイオス」たるものを雄弁に物語るとすれば、その飛び込み台として2元性の監獄をこそ直視する必要がある、という構造である。しかし2元性に囚われた心性という主題は普遍的な下部構造というよりもむしろ文化的な傾向であって、その基底には一神教的精神文化が色濃く読みとれるのである。キャロルの魔術宇宙、ケイオスマジックとは数学的あるいは物理学的に発見されはじめたカオスという概念を如何にして西洋秘教精神に接続していくか、あるいは西洋秘教精神から如何にしてカオスの海に跳躍するかという方法論的格闘とも読める訳で、東洋的精神、日本人精神土壌にはまた別口の飛び込み台が用意されてしかるべきと考える。
(かなり乱暴に書き飛ばしてきたが、ちょっと一息コラム。そもそも数学的な「カオス」という概念も、それが東洋的概念または神格としての「混沌」と完全に一致するかという問題もある。フラクタルによる人工生命や自然のシミュレーションCGを眺めてみるに、どうもまだ生命・自然がもつ複雑性を完全に捉えているとは言い難い生硬さを感じるのは私だけだろうか。まぁその硬質な・アーティフィシャルな美がまたスリリングなのだが、安易に東洋的自然観と西洋的自然観の融合!をそこに見い出すのは早急というものだろう。)
ともかくも、情動機械の制御法としてDigitな2元論モデルを援用し、0から1へ、1から0へと軽やかに往復せよ、というだけでは「それが心の再組織化?」と鼻白んでしまう私としては、Metamorphosisもまた日本的八百万サイバーランドスケープへと接続可能な互換性の高いインターフェースを別口で用意したくもなる。キャロルの提示するMetamorphosisの到達目標とは、ひらたくいえば自己イメージ、アイデンティティに関する限界、条件付けを克服し、より柔らかで適応力溢れた状態に達する、ということであろう。西洋的精神においてはそれはタブーの侵犯、言語的カウンタープログラミング、あるいは言語的クラックによるシステムシャットダウンとリブートの自在性獲得によって効果的に達成されるとイメージされるのであろうが、そもそものタブー、個人、善悪という概念が極めてあいまいな我々ぼんやりさんには、いまひとつピンとこないもがきっぷり、でもある。そこで私が、キャロルの提示する基礎教程に抜け落ちていると指摘しつつ追加すべくパッチプログラムとして提示するのは、やはり身体性、なのである。
我々日本人的感性において、というのも乱暴だが、ともかくも西洋的な「個人」や「霊肉二元論」とは異なる基盤をもつ我々にとって、心の再組織化は言語的というよりも身体的なアプローチのほうが近道ではないか。東洋的精神を携えながら西洋魔術という言語宇宙の迷宮に遊び入るためには、カウンターバランスとしての健強な身体感覚が必須であり、キャロルのいわんとする要点を身体的に翻訳して体験することは可能かつ得意とするところである。
てっとり早く自己イメージの変容、メタモルフォースを体験するには、日常の「身体」を注意深く観察するだけでよい。キャロルは「慣習」を捉え意図的に変革することを挙げているが、Neuro-martial artを志向する本稿の意図からは、もう一歩引いたところ、「習慣」からさらに「身振り」まで引いたミクロな視点を提示したい。ダンサーや武道家など、日常的に研ぎ澄まされた身体感覚を持つ人でなければ、自分がどのように立っているか、歩いているか、座っているかを意識することは稀だと思う。Motionlessnessで脱力して重力にひかれるままに放置される筋骨格系をとらえたら、今度はそれを起き上がった状態、歩いている状態でどうバランスをとっていくかを意識していく。これを始めたら最後、追及すればするほど広がっていく奥深さに途方に暮れるだろう。右足を前に出す、その挙動ひとつとってみても、腰、背中、首、顎の筋肉が連動していて、自分のクセから多様している筋肉、怠けている筋肉などアンバランスな身体感覚のマップが浮かび上がってくる。これをひとつひとつ丁寧に捉え、最も合理的、「美的」な身のこなし方を模索する。
身振りの更新は、最初のうちは不慣れな新しい筋骨格の動かし方に凝りや緊張がでたりもするが、慎重に妥協することなく追い詰めていけば、まったく新しい、より合理的で、より美的なバランスを身体が獲得することになる。なにげなく街を歩くときもファッションモデルのような伸びやかさで歩いている自分を発見するだろう。ジーンズのしわや、伸び方、重みの感じ方が変化し、服の嗜好も変化するかもしれない。着なれたはずの服がなんとなくしっくりこなくなり、まさか自分が着るとは思わなかったような服を着てみたくなる、着こなしがイメージできるようになる。脂肪の付き方、慢性的な痛みやだるさが変化する。物をつかもうと手を延ばすとき、よく見ようと目を凝らす時、以前より明らかに拡張された稼働域と重心バランスによって動いている自分を発見する。
こうして次第に筋骨格系と神経系が有機的に再組織化されるプロセスは、まさに自己変容であり、このプロセスはまず、自身の身体を観察するという行為のみによって開始され、到達するのである。これが、私がMetamorphosisに「観相」の語を当てた意図である。Metamorphosisというからには、チビのおカマ野郎からイケメンファッションモデルへの変容、くらいはこなしたいものだ。その鍵は「観る」こと、その一点にある。
キャロルの提示するような、善悪や好き嫌いの相対化、タブーへの挑戦など精神的、心理的な操作もやってみる価値はあるだろうが、生理的に抵抗感のある変態セックスに勇猛果敢に挑戦しても、それだけでは自分の心/情動機構の一部が変化・破壊されるだけで、そのような場当たり的な外科処置のみで「再組織化」まで達成されるかどうかは疑わしい。キャロルの記述においては再組織化の前提となる自己イメージの解体、破壊の部分が強調されているのであり、そのトーンがまたキャロル、ケイオス系の霊的暴走族とでもいうようなスリリングな魅力でもあるのだが、受けとる側のスキルもまた求められるのだ。自己存在そのものが全体的に変化してしまうダイナミックな体験は、まず身体への視線が不可欠であり、キャロルの魔術ではその部分はMagical trance、Gnosisといったハードな身体操作として扱われている。これについては改めて書く。
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