Posted on X [2023]
なんかさ 占星術とかタロットとかって、象徴、象徴的思考てのを扱うのね。例えば、火星→赤→鉄→武力→馬→男性性→棒→権力みたいな、連想、観念の連鎖を、割とだらだらっとずらし続ける、みたいな。ある観念は別のある観念と重なり、ずれて、その動きが簡単な文法や公式みたいなものすら構成して、思考のユニットとして機能する、みたいな。そういう意味では象徴的思考てのはひとつの言語体系のようなものでもあって、占星術やタロットを学ぶのは、外国語をひとつ身につけるのに、似てる。象徴を繋ぐ鎖、枠組みたいなものとしては言語そのものが(それだけではないにしても)大きい。花言葉とかそうでしょ。あれはフランス、イギリス、日本とまぁ言語ごとにああいうものがあって、今でも増えたり変化したりしてる。モノに名前をつける、てのが、象徴機能のスタート地点でもある訳ね。ソシュールの「言語は恣意的な差異の体系だ」という言語観だと、その最初の最初はイヌとかヌイとか、音素の舞踏、名前空間の自律的な充満、みたいな感じになるのかもだけど、今はそれは置いといて。モノがあって、音やイメージがあって、音やイメージ間の共鳴や干渉があって、言語、社会、認知、へと体系化されていく。そんななかで、占いや魔術っていう一つの言語文化圏、関数ライブラリが、水たまりみたいにそこにある、ていうイメージを、おれは持ってる。いやそれでさ、割と長くこういう界隈をあれしてきたおれは、こういう感覚てのをまぁ人と議論したり、時には自分はこういう感じだ、ていうレクチャーしたりって事があって。積極的にワークショップとかしてたのはもう数年前とかだけど、一番そういう感じだった時に、おれが一番強調したのが「オタクになるな」だったのね。この「オタクになるな」というスタンスがまた結構物議を醸すものでもあって、それは今でもそう思う時があって、言い方ってのがあるよなーと思うんだけど、別のうまい言い方ってのをおれはまだ見つけていない。もうオタクという言葉は「世代」みたいな意味で使われてて、「オタクになるな」という物言いが一つの世代をまるごと否定するような響きをね、持っちゃうから気をつけろ、と助言してくれた人がいて、なるほどそうかも、と思ったし、今もまぁ思ってるわけよ。訳だけど、それでおれが言いたかったこと、今も言いたいこと、本質的には何も変わってない問題意識はつまりね、ていうのがこの長文の趣旨なんだけど、それは、占いや魔術っていうものが本来そうであるような、ずれながら連鎖していく象徴的思考を扱うものだ、ていうこととさ、一つのこと、ある領域、ある名前空間の体系的秩序を、もうわき目も降らずに没頭して、追求していく、ギーク的な態度、生き方、としてのオタクネスみたいなものって、やっぱどっかでコンフリクトを起こすんだよ、ってことで。改めておれの考えるところを説明すると、占いや魔術っていう思考法、ひとつの言語、言語文化を嗜むっていうのは、どこまでも「ずれていく」思考の運動なんだ、てことで。ずれるってのは、常に「外部」へずれていくって事なんだよね。緻密な秩序が内部的な完全性、完成に向かって閉じていくのとは逆の、イヌていうのがあのワンワン野郎であり、他のなにかであって、結局なにがなんなんだよ、ていう宇宙全体に残響していく「語り得ないもの」まで、響いてる、響かせる、みたいな、そういう言語でさ。「魔術・占い事典」ていうものを想像してみると、おれの感覚では、それは無限のページ数になって、つまり事典としては成立しない、なんか無限のページの質量が自分の重力に耐えきれずボカーンて爆発して、ヒラヒラつって落ちてきた紙切れ、そういうものでしかあり得ない、ていうふうに感じてるのね。まぁそれもいいとして。何が言いたいかっていうと、「あれはこれである」という、名付け? 名前空間の定義? をね、ある程度まではやるんだけど、その外延は、開いてて、決して閉じれない、そういうものを、趣味としてやる時にね。こっから本題なんだけど。色、元素、男性性/女性性、鉱物、香り、音、神話、情感、そういうものをどんどん、ライブラリとして編纂していく時にね、ぜひとも、自分の人生そのものを、そこに組み込んでけよな、てことなのよ。今日みたこと、起きた事、ニュース、自分の選択、しがらみ、秘密、それを組みんでけよ、と。前に「占いや魔術やるなら、占いと魔術以外の全てをやる覚悟を決めろ」みたいな言い方をしたこともある。それっていわゆる皆が想像する「オタク」性と、逆のこと、じゃね?びっくりしない? てことで。ありとあらゆる文化芸術、今ここで起きている政治問題、今ここで自分が巻き込まれているあらゆるしがらみと制限と衝動、それが、ホロスコープやタロットカードに投影されて、そこからなんだぜ、みたいなことをね、衝動的に言いたくなったのよ。そうしないとね、おっかないのは、占いや魔術「みたいなもの」の、その広告と課金システムのなかに、閉じ込められて80年くらいあっという間に過ぎちゃうかもよ、てことよ。大きなお世話でもあるけどさ。常に外にずれていく意識の力学、それは自分自身の外につねにはみ出しつづける態度で。ならば、それはコミュニケーションなのね。宇宙との、隣人との。それをやらない、やれなくて、30年痴漢しちゃう、みたいなさ。ちょっとまとまらないからまた今度続き書くかも。書かないかもだけど。アディ押忍!