Mogick - Magickal neotenism in hyper flat landscape : Ver.1.4 2005/05/19
author : Anonymous
古来、和をもって尊しとする日本的精神文化土壌においては、シャーマンの呪力は外敵への攻撃や絶対神への畏怖よりもむしろ、重労働をねぎらい共同体との幸福な合一感を高める友愛意識、ムラ意識の増幅と共有こそを主題とした。これに、恐れ多い権力者、大君さえも死ぬと子供に帰るという死生観も加わり、あの世とこの世、世俗と権力を橋渡しするヘルメス神の姿態は幼子、童、またその遊び相手といった幼児的意匠をまとい、死者、先祖、神々と現世人は「家族」として、相互的な保護と恩寵の絆で結ばれていた。古墳の内装などを眺めれば、子供部屋のようなカラフルさ、素朴さ、やわらかさが確かに感じられる。大陸の影響を受ける以前の埴輪も、呪物というよりも子供を慰める玩具のような楽しさと愛らしさのほうが率直にみてとれる。
アニメ、マンガなどの現代日本の特徴的な文化は、すなわち異界や権力など超越的な領域に、畏怖ではなく愛しさ、慰め、幼児性を投影する古来の感性の自然な発露である。神を、異界を、自然の諸力を幼児的な愛しさとして表現し、親子の愛情と同質の保護、安らぎという関係性を構築して発展した日本文化は、幼児的なもの、愛らしいもの、小さく繊細なものへの研ぎすまされた感性を持つという点で世界でも希有なものである。
この日本人独特のエロス、それは性愛的エロスとも、形而上的エロスとも、微妙に重なりながらも同一ではない「愛」が、まさに幼児的であり性愛的であり形而上的でもある現代日本のロリコン文化、2次元文化のさなかから生まれた概念である「萌え」のなかに、再生・変奏されていることは論を待たない。埴輪からドラゴンボール、SONYの極小ウォークマンからハードなロリコン文化まで通底している日本的エロスの、現代的表現が「萌え」なのである。
「萌え」は幼児的エロスの発露、表現である。朦朧とデフォルメ・単純化された「幼児の図像学」こそが萌えの媒体となる。そこではディテールは省略され、線と面による単純直裁な表層が色鮮やかに溢れ出し、内なる幼児性をあやし、慰める。
またこの幼児的表層は同時に、異界とのインターフェイス、形而上的エロスへと展開する。死者、先祖、その最果てに鎮座する先祖神と交感の場である線と面と色彩の領域、それは現前の表象を飛び越え、ある超越性Transcendenceを内包することとなる。現代美術の文脈でとり沙汰される「スーパーフラット」を、霊界とのインターフェイス、形而上的空間へと拡張した概念を、ここではとりあえず「ハイパーフラット」と呼ぶことにする。スーパーフラットな表象に、異界、霊性を透かし見て、相互に交感するトポスとして設定することにより、八百万の神々が幼な児の姿形を纏い乱舞するハイパーフラット空間が立ち現れる。
霊界との交感、魔術的・呪術的行為のトリガーとして、日本人は、「畏怖」でも「敵対」でもなく、幼児的・性愛的・形而上的エロスの複合体Complexとしての「萌え」を喚起し、家族的、また近親相姦的な親密さで結びつく。この呪術的感性によって、縄文の昔から現代まで綿々と面なる日本文化が形成されているのである。
退行ではなく進化としての幼児化、ネオテニー(幼形成熟)は、萌術の熱源でありまた目的でもある。ネオテニックな進化への欲望・意志が保証する進化論的遠心力から逸脱し、 幼児的・性愛的・形而上的エロスが統合性を失ってアンバランスに漏出する不安定な状態は、消費それ自体を目的化してしまったヲタク文化のネガティブな諸相として現れる。 萌術は、このような袋小路からの脱出を目論むネオテニック進化論であり、古代から未来へと貫通する日本精神文化の精髄の、魔術的ルネサンスである。
すなわち、萌術とはネオテニーの魔術に他ならない。
(本稿はインターネット上の日本語掲示板「魔術結社GIKO@2ch.net」に匿名で投稿された。匿名筆者は本稿に関する基本的著作権を放棄し、文章が改変されない限りにおいて本稿のあらゆるメディアへの転載/配布を無制限に許可する。)
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