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About Contemporary Magick, 現代魔術について

じゃわめき

[2017]

 

今日、フローティングタンクを訪れてくれた内科医師の方とのタンク後の語らいを、とりとめなく備忘録として記す。

 

内科医先生は、ある時を境に、いわゆる「スピリチュアル」な世界への関心が高まったとのこと。とある海辺でヒーラーのサポートのもと、波間に数十分浮かぶワークを体験をしたことから、フローティングタンクにも興味を持った。なるほど、足に補助浮き輪をつけ、頚椎をヒーラーに支えてもらい、波の力動を全身に感じ、信頼するヒーラーと肌で繋がって大海に身を委ねるフローティングワーク、それはいいなと羨ましく思った。ある面で「アイソレーション」タンクと真逆のアプローチであり、そんな素敵なワークを体験された方が35.8℃の隔絶された温水での静的なフローティング体験をどう感じられるか、興味深かった。タンク後の語らいで、海のワークでは肌を滑る波のマッサージがダイナミックな宇宙との合一感覚のトリガーとして感じられたが、タンク内でのフローティングには勿論それはなく、代わりに知覚が体内の微細な音や呼吸に集中していくのが印象的だった、という。

 

泡立つ波音、渦巻くマッサージ感覚の絶え間ない刺激は、催眠的、あるいはシャーマニックなトランス感覚を誘発していく必須的な要素だろう。そこで顕れ出るものは、ダイナミックに脈打つ生命宇宙であり、それとの合一感覚は、たとえそれが静寂で満たされていても、一種の高揚感、ピーク体験を伴うものである筈だ。翻ってフローティングタンクでは、感覚器からの入力は静謐化され、フラットアウトし、自我を成立させている意識の働きが低下、あるいは停止する。ドラマチックなピーク体験ではなく、いつのまにか途切れ、またいつのまにか再開される「わたし」の、束の間の消失体験を、後から振り返ってなんとも不思議なり、と感じ入るといった趣だ。当クリニックのフローティングタンク・パンフのメインコピーは「無のスピリチュアルリゾート」である。

 

当初、海でのヒーリングワークとフローティングタンク体験を双極のようにイメージしていた私だが、その両方を体験された内科医先生との語らいのなかで、そのイメージは修正された。タンクのなかにはなにもない。なにかを体験している「わたし」もいない。しかしその時、外に開かれていた知覚は体内、心理的内面へと反転し、内に向かって開かれる。そのトリガーは、体内の微細な音だ。気道を通る呼吸の音、心臓が打ち出す脈拍、そしてなにかしらの体液が流れる、微細な音とリズムが、海の波音や力動と同じ効能を持って、変性意識への手がかりとなっている。体内の海、そのノイズとカオスに耳をそばだて、委ねていく、そういうことがタンク内で起きている。

 

フローティングタンクが賦活するものが端的に言って「リズム」であることは、生理的リズムによって人それぞれに見合ったセッション時間が自ずと発見されていくこと、1週間、1ヶ月、数ヶ月から1年まで、それぞれでありながら厳密な周期性がリピーターの訪問タイミングを支配していること、などから、経験的に実感されていたことだ。そしてタンクによって沸き起こってくるリズムのルーツは、90分間の静寂によって浮かび上がる呼吸と液流のノイズ、そのフィードバック的知覚であり、それは大海の潮汐リズムと、機能的にも象徴的にも同じものである、ということに気づいた。それはなんとも当たり前すぎる結論の、鮮やかなAHA体験的到来であった。腑に落ちる、ということであろう。

 

何で読んだか忘れてしまったが、土方巽の舞踏に関するなにかしらで、東北人の聴覚表現についての一節が印象に残っている。東北というのは、雪が降ると圧倒的な静謐によって閉ざされてしまう。家のなかで何もすることがなく、塩をなめ酒を飲むと、雪が降る音が聴こえるという。雪の降る音といえばしんしんと、だが、東北人はその音を聴くと、心が「じゃわめく」という。それは雪の降る音の静謐に心が圧倒された時に、内的に顕れでるカオス、ノイズの静寂-爆音であり、東北人はその「じゃわめき」にいてもたってもいられずなって、三味線をぶっ叩くという。

 

しんしんと降る雪の音と、津軽三味線の轟音を一体のものとして繋げてしまう心的な場が、じゃわめいている。この語は深く私の印象に残り、日本で商用インターネット接続サービスが開始された90年代半ば、仲間たちと東京恵比寿で運営したアンビエント専門海賊FM局のキーワードとして折に触れ口にした。世界初の衛星デジタル放送セント・ギガが「"I'm here." "I'm glad you're there." "We are St. GIGA」という宣言とともにその静謐を発信開始した数年後の頃合いである。

 

内科医先生との語らいでもうひとつ、臓器を臓器として分断して扱う西洋医学への違和感が話題に上った。話はバタイユの秘儀結社アセファル、岡本太郎の太陽の塔へと飛躍し、ここ数百年、あるいは数千年の脳優勢トレンドと、それへの腸的叛逆が近代的葛藤を貫いている、といったことをとりとめなく語らった。 ジュリアン・ジェインズ「神々の沈黙 - 意識の誕生と文明の興亡」の大胆な仮説によれば、この脳優勢トレンドは紀元前3,000年期にはじまり、現在のような自我意識の形になったのは紀元前1,000期、ほんの3,000年前であるという。それ以前、神の声を直接に「聴き」、その声に抗う葛藤もなく行動していた人間の有様は、古代ギリシャの吟遊詩人ホメーロスの叙事詩に克明に記録されているという。私は、その神の声が「聴覚」をジャックしていたことに興味を惹かれた。私自身、ある種の瞑想体験により阿波弁とドイツ語の合成語のような「声」を、克明な幻聴として聴いた経験があるからだ。

 

脳と腸に二極化した神経系が今なお時折感受する、神の声、阿波弁ドイツ語、雪の降る音は、脳系によって言語的に、腸系によって「じゃわめき」として処理される。あるいは、脳から腸へ、腸から脳へと、「声」や「じゃわめき」が相互に翻訳されているのかも知れない。そしてその中間プロトコルと「聴覚」は深く結びついているようだ。音はつまり振動である。腸は自身の蠕腸運動のリズムを持ち、体表から外部の音を神経パルスとして感受している筈だ。とすると、意識の場の中心に脳を据えるのは、率直に、冷静に、単純に考えてみて、不自然だ。意識における言語活動の重要性を不当に強調する、脳の詐術的な自己言及が感じられる。脳と腸、背骨、体表を流れ行く神経パルスが織りなす、じゃわめく「音」の場、それこそが意識であろう。脳は、なぜだか知らぬが、この単純明快な事実の隠蔽と、詭弁の「声」による論戦を、ここ数千年、企てているのである。

 

最近スピリチュアル文化に関心が向き始めた内科医先生からの、心療内科併設フローティングタンクのナビゲーターでありタロットリーディングも提供している私が「スピリチュアル」をどう捉えているか、という質問を受け、わたしは自身の回想のじゃわめきのなかに入っていった。当初の関心はオカルティズムではなくメディア論であったこと、20世紀のちょうど真ん中、1950年代に同時発生した放浪ビートニクス部族、ロックンロール、復興魔女宗のこと、フロイト-ユング以降の心理学がその基盤部分にヨーロッパの魔術的知を一種の崇拝、憧憬とともに保持したこと、テクノロジーは常に魔法を具現化しようとし、その魔法は何らかのメディア的形態、媒介機能を帯びること、精神科医としての院長と占い師としての私の狡猾な二人三脚、など。

 

理性と制度による声のコード化と、そこからあからさまに溢れ落ちる芳醇なじゃわめきは、少なくともここ数千年は、図と地の関係を成立させてきた。この絶妙な馴れ合い、かけあいの不全は、今日拡大している発達障害の概念に噴出しているように思える。前掲ジェインズによれば、統合失調症は「神の声」を聴いていた頃の精神機能の名残であるという。シゾイドパーソナリティとして固着した20世紀的心性の21世紀的展開が、拡張を続ける発達障害概念、なのかも知れない。違うかも知れない。

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