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About Contemporary Magick,現代魔術について

生命と富の魔術

「問答2000」 Vol.1 [2015]

 

低次魔術のゆくたて


事実として、魔術はまずもってフォークロアである。それは民話で語られ、農夫が季節の祭礼に祈り、都市を徘徊するディレッタントが最後の望みを掛けて、ロマの占い師のアドバイスの下、「行う」ものだ。それら魔術の現場は、次第に「低次魔術」として、天使と交信し鬼神を使役する、隠された知を探究する魔術師の聖なるアート「高次魔術」から、分離された。

 

しかしながら、分離・隔離されたのはむしろ「高次魔術」のほうであることも、明らかだ。なにせユーザーの分母が違う。通俗本として流通した様々な魔導書を手に入れ、実際に「やってみた」人たちは、ディレッタント、ヤクザもの、豪農、売春婦とヒモ、有閑夫人たちであり、その多くが富、愛、復讐、訴訟など、泥臭く、切羽詰まった願望をそこに投げかけた、いや勿論、今この瞬間にも投げかけている。間違いない。ページをめくりながら、覚束ない所作でたどたどしく呪文を唱え、悪魔を呼び出し、幾らでもいいからとにかく臨時収入(できればこれくらい)だとか、間男を1週間以内にインポにすることだとかを唐突に要求すること、それこそが魔術のメインストリームである。JPOPでいえばAKB48、いやサザンオールスターズだ。

 

呼び出される悪魔の側からみてみればよい。顧客の圧倒的多数のニーズは金、セックス、インポ、ギャンブルなのだから、手慣れたものだ。おれが悪魔なら、とっくの昔にパッケージ商品を開発してルーティン作業でチャリンチャリンだ。サザンはファンを裏切らないのと同様、悪魔もまた決して低次魔術ユーザーを裏切らない。なにせ分母が違うので、低コスト化と高品質化が進む。コモディティ化である。これは純然たる経済の原理である。

 

しかしまた、魔術が「効かない」ということも、純然たる「合意現実」である。おれは20年の実践経験において出会った様々な霊的存在全てに対し、一律に300億円くらいの不労収入を要求してきたが、未だそれはもたらされていない。つまり、効かないのだ。

 

この「効かない」ということと、現世利益的な魔術が一段低く見られることには、関連があるように思う。魔術で金が儲かるなら、誰もがやるだろう。そして書店には「その気にさせる!悪魔プレゼン術 - すべての願望にイエス」「ゴエティックFX - 最低をくぐり最高へ至れ」といったタイトルが並ぶ筈だ。しかし今現在、そうはなってないので、やはりやってみても儲からなかったのだろう。そんなわかりきった世界のわかりきったある日、ふと知人が、魔術に一大決意を持って臨み、6ヶ月の純潔だの日々の祈りだのに打ち込んでいる、と耳にしたら…

 

久々にあって、あれそういえばどうだった?魔術。と訊ねる。いやーハハハ、と力ない笑いでお茶を濁す。だからいったじゃん、魔術とか…するとガタ!虚ろに俯いて黙っていた知人は、唐突に椅子を引き、座り直し、遠慮がちに視線をあげる。「いや、今回はね。まぁ。最初だし。動機が不純だったし」今回は?最初?てまたやんの? 「それは、まあ…面白いし」

 

効かなかった魔術は嘲りの対象だ。そして為された魔術の殆どは金セックスインポ賭博といった低き願望の手段だ。つまり、これまで人類史的な長きに亘り、数々の効かなかった金セックスインポ賭博魔術が嘲りの対象になってきた筈で、その数たるやエノクの天使からアエティールの秘密の鍵を聞き出そうとして笑われた数とは比べ物にならないほど多い。

 

さらに、やってみた当の本人の反応は、大きく二つに別れる。「ねーほんとバカやっちゃったねー」とケラケラと笑ってみせて、おどろおどろしい表紙の「魔導書」をブックオフに持っていくのも恥ずかしく、そっと本棚の見えないところに収める派。そうでなければ、「うん、効かなかった。けどそれは当たり前なんだよ。あれは一種の罠、ソウルトラップなんだ。低次の欲望に翻弄されている内は、本当の魔術の力に触れることはできないんだ」派。

 

つまり、術者本人が、魔術が効かなかった理由として「それが低次の欲望にまみれた、真の魔術とは程遠い猿芝居に過ぎなかったから」を採用することもあった訳だ。彼はいい魔術師になるだろう。それはともかく、やってみなかった圧倒的多数に嘲られ、やってみた人の内ざっくり半数、いや2割が「それが低次魔術だったから」という理由で納得するのであれば、これはもう金セックスインポ賭博魔術は紛う事なき低次魔術なのであり、「いや一概にそうとも言えないかもよ」などと反論することは、既に納得済みの色んな人々の秩序を脅かす、「波風立てる」物言いになってしまうのだ。

 

High Contextual Lower Magic


はてさて、我々は欲望する。資本主義経済は、我々の果てなき欲望をエネルギーとして、今日も回転している。とりま、我々は「我々は欲望する」という事実から目を背けることは出来ない。魔術が超自然的な力で願望を叶えるため「だけ」のものであるかは議論の余地があるとして、圧倒的多数の人間が、願望を叶えるために魔術を行ってきたことを無視するのは、知的に誠実な態度とは言えない。ニーズがあるなら、ソリューションがあって然るべきだ。なぜ、金とセックスとインポと賭博にまつわる魔術は効かないのであろうか。そして、どうやったら、それを効くものに改良できるだろうか。これが本稿の主題である。

 

魔術は効くか効かないかと問われれば、効くとしか応えようがない。本書をダウンロードしてここまで読み進めたすれっからしの魔術野郎どもにはいまさらな話になるが、魔術の面白さは上手いも下手も関係なく「効く」こと、魔術の怖さは「どう効くかわからない」ことだ。先の例で、なぜ知人の魔術が効かなかったというと、本当はどこかで何かが起きているのだが、それに気付けなかっただけなのだ。魔術は、というかこの宇宙では、何かをやって何も起きないということはあり得ない。それは熱力学第二法則という、科学の法則としては希有な長命を誇るテーゼによっても、既に証明されている。わざわざ科学的に証明してもらわなくても、やってみればわかることだ。まぁぶっちゃけいえば、修行とか必要ないし、呪文を間違えても、とにかくなんだかよくわかってなくても、ようするにデタラメをやっても、やれば、何かが起こるのである。それは圧倒的なシンクロニシティ的強度を持って嵐のようにやってきて、背筋の凍るような甘美な瞬間をもたらすこともあれば、忘れた頃に「あぁ、こうきたか」と思わず膝を打ってしまうようなトンチとして返ってくることもある。なぜそんなことが起こるのか、おれも説明はできない。しかし、やってみた本人に説明ができず、科学の偉い人も説明できないのなら、それが幻であるという結論よりも、なぜかおれたちはそれを語る言葉、知覚の枠組みを持っていないのだ、と結論するほうが、理にかなっている。全員が一致する意見は、必ず間違っているからだ。

 

ともかくも、やれば何かが起こる魔術という枠組みの中で、「低次な願望」にブロックがかかっているのはどういうことか、これを考えてみよう。そのためにまず、我々の「低次の願望」を、実際的に満たしているものは何か、を考えてみる。

 

富を求める願望を満たすものは、経済活動だ。しかし、なぜ富を求めるかというと、経済の枠組みにあらかじめ束縛されているからであり、これは一種のトートロジーだ。事実、資本主義経済とは「富が富を求める」再帰的な力動をエネルギーとしており、その善し悪しは今も結論が出ていない。ここで「なるほど、富を求めるという願望自体が幻覚だったのだ!」と納得すれば、光り輝く高次魔術の神殿はすぐそこだ。しかしそれでは本稿もそれ以上言う事がなくなってしまうので、もうちょっとひっぱろう。

 

富っていうかこうさ、金もそうだけどさ、金を使って何かを求めるわけじゃん。それが重要なんじゃね? そう。そう言おうと思ってた。じゃお金を使って手に入れたいものは何だろう? グリモワールを紐解くと「家畜」などが得られるとあるが、これは流石に現代的とは言えない。家畜は富の象徴であり、なぜならばそれが更なる富を生むからだ。すぐ食べちゃダメ。あーまぁ食うに困るってのは嫌だよね。つまり、貧困を遠ざけたい。まぁね。しかし「貧困から脱したい」という願望を魔術的に願掛けして、これが上手くいくかというと、多分上手くいかないのである。魔術は人間が本来持っている非常にプリミティブな能力を駆動する。プリミティブな、というのは、ウホウホいってた頃の「わたし」であり、それは今も、聴こえはしないが、ちゃんと「わたし」のなかでウホウホいってるのである。詳しくは脳科学の本でも読んでください。とにかく、ウホウホいってる奴に命令するとなんで魔術的な力を発揮するかというのはわからんが、ともかくも、やってみるとそうなのである。そして、ウホウホいってる奴は、難しい文章を理解できない。やつの主語は「わたし」しかない。もっといえば「ウホ」だ。「じゃない」も理解できない。「貧困」と投げかければ「ウホ」と応える。「じゃなくてー」あたりは軽く流し、奴は早速、ウホウホいいながら貧困をどっさり運んでくるだろう。それくらいプリミティブな奴に、あの手この手で「何が欲しいか」を伝えなければいけない。そういうコミュニケーションでは、「わたし、バナナ、おいしい」というか「バナナ!」くらい噛み砕いて言い聞かせなければいけない。

 

家畜もバナナもちょっと…という向きは、真剣に考えてみなければならない。富によって、何を得たいか。そもそもの出発点に立ち戻るならば、残りはセックス、インポ、賭博だ。このうち賭博は結局富を得る手段なので却下する。実践的なシジルマジックでも、願望を文章化して、重複する文字を消去して次第に図像化していくテクニックが用いられる。賭博なし。じゃあとはセックスとインポだ。言い換えれば、愛と憎しみだ。なるほど、なんとなくそれっぽい。しかし憎しみは、先ほどのウホウホいってる奴の主語は「わたし」しかないので、「あのクソ野郎をインポに~」と伝えたら、速攻でわたしがインポになってしまう可能性がある。可能性がある、とお茶を濁したのはそこはそれ、いろいろやり口はあるからなのだが、今は話がややこしくなるので触れない。ともかくも、インポもなしだ。ていうか、誰かをインポにして、それで本当に幸せだ、なんてそもそも思ってなかったし。というわけで、愛一択になるわけだ。

 

うん、愛、いいよね。

 

ていうか、愛されてれば、お金だって回ってくるでしょ。回ってきたお金も、結局は愛のために必要だったんだ、てわかったし。というわけで、低次魔術の願望を魔術的に蒸留抽出して、愛という崇高な目的を、見つけることができました。この答えをもって本稿の結びとしてもいいのだが、まあもうちょっとひっぱろう。この程度のことなら、その辺にいっぱい書かれてる。おれは既に、愛が欲しいというより、低次魔術をやりたいのだ。そういうのは気分の問題だ。

 

金を求めて魔術を行うのより、愛を求めて魔術を行うほうが、心なしか罪がないというか、そんな気はしてこないだろうか? 少し気が楽になったのなら、ゴールはもうすぐそこだ。愛は、典型的な低次魔術的願望から抽出されたエッセンスであり、そこに金もセックスもインポも賭博も全て包含した「いい感じ」が表現されている、低次魔術の究極的なシジルだ。つまり我々は当初の欲望に何の変更も加えず、ただ真っ直ぐに「欲しいもの」に向かってきただけなのに、今や「低次魔術」にまつわる後ろ暗さが少し後退している。この一連の操作は、Lower magicをHigh context化することによって、心理的・霊的な抵抗を取り除いていくというプロセスであり、欲しいものを欲しいと率直に思えるこのマインドセットが得られれば、既に魔術の9割は達成されたと言える。我々は今や、低次魔術的野蛮を持って、至高の目的へ突進する。

 

生命力と富の魔術


では如何にして愛を手に入れるか。そこは各人工夫して頂ければいいのだが、もう少し魔術的に考察を深めてみよう。

 

この地球で、最も具体的な愛のエネルギーは、如何なるものであろうか。それは太陽である。地球上の全ての生命は、太陽からの放射エネルギーを変換することで生命活動を維持している。そして太陽は、代価を求めない。熱力学的閉鎖系である地球に、一方的に、無償のエネルギーを注ぎ込んでいるのが太陽だ。それは愛の象徴であるというより、愛という概念がそこから派生しているというべき本源であり、我々が愛と呼んでいるエネルギーの最も具体的な実相なのだ。

 

いやもっとそういう崇高な話じゃなくてもっとこう、という向きは、今一度よく考えてみるとよい。人間的な愛情は、つまるところ何に依拠しているか。頭の鈍い読者のために噛み砕いて説明すると、誰かを好きだ、と感じ、胸が高まり、全身が至福で満たされる時、そこではエネルギー変換が行われている。具体的にいえば、昨日食べた食物が、体内で分解され、神経伝達物質や糖分となって、全身に愛の反応を引き起こしているのである。健康な肉体はより多くのエネルギー変換を行えるし、病弱であったり、空腹であったりすれば、好き!という勢いもそれ相応に落ちる。我々はそういう炭素系生命体なのだ。我々の目標は愛であり、より多くの愛を我がものとせんと欲望している。であるならば、まずはよく食べ、よく眠り、よく動く、ということが最もシンプルな解決である。そしてどの食物も、太陽の放射エネルギーに由来している。結局のところ、地球上の全ての生命活動は、この惑星に降り注ぎ循環する太陽の光そのものなのだ。

 

食物として摂取するだけでなく、直接に太陽光からエネルギーを吸収してもよい。どちらかというと、そっちのほうがちょっと魔術っぽい。実際、我々の肉体は太陽の放射に如実に反応するようできていて、ある種のビタミンは太陽光を浴びることで体内で生成される。ともかくも、今も降り注ぎ続けている圧倒的な、無尽蔵な愛のエネルギー、太陽の放射を無視して、愛の魔術を行おうとするのはナンセンスの極みだ。

 

このように意識され、感得され、摂取される太陽放射は、つまるところ生命力(Vital force)と呼んでいいだろう。これをオカルティックな感性と技法を持って、より意識的に、魔術ぽく取り入れる実践は、我々が目論むところの愛の低次魔術の基本要素となる。以下に実践例を記す。

太陽礼拝

日に三度、日の出、正午、日没のタイミングで、太陽に面し、観想する。(屋内や、太陽光アレルギーなど事情がある場合は太陽をイメージするだけでよい)

1.
率直にその光、熱、語り得ぬ至福を受け取る。彼は代償を求めず、その抱擁は暖かい。

2.
両足は肩幅に、両手を肩の高さで水平に左右に広げ、掌は上に向ける。足裏と頭頂部が一本の柱となるようイメージし、あらゆる螺旋を描いてその周囲と中心に柔らかなエネルギーが循環するのを感じる。このエネルギーは太陽の放射が自身を包み込むエネルギーの繭であり、足裏を通じて大地へ、そして頭頂を通じて天頂へ、流出し、循環するものである。自身の内なるエネルギーではなく、太陽から無尽蔵にやってくるエネルギーであり、自身もそれを溜め込むことなく、ただ循環させるパイプとしてあることの快感を味わう。

3.
身体の内部、そして身体の周囲が、やや明るく感じられたら、祈りを唱える。

(朝日に向かって)
「御身、強かなるラーよ、我御身に敬服す」
(正午の太陽に向かって)
「御身、美しきアハトールよ、我御身に敬服す」
(夕日に向かって)
「御身、悦ばしきトゥムよ、我御身に敬服す」

※祈りの文句は各自納得のいくものでもよい。たとえば「朝!」
「昼!」「夜!」と叫ぶだけでもよい。

これを日課とし、都合により太陽と相対することができなくても、想像の内で必ず行うよう習慣づける。太陽の呼び名が変わるのは、内的なリズムをより効果的に刻むための工夫である。

 

さて、我々が直接に利用できる最も甚大なエネルギー源との繋がりが日常生活のうちに形成されたら、さらなる低次魔術的追求に向けて、より精妙な領域に踏み込もう。つまり、もうちょっと魔術っぽいこともせっかくだからやってみよう、という訳だ。

 

我々の世界は、朝になると明るくなり、夜になると暗くなる。なにを当たり前のことを言ってるのか、とお思いだろうが、この当たり前のことが、如何に我々地球表面にへばりついた微生物の如き炭素型生命体にとって甚大な影響力を及ぼしているかは、なかなか日常生活では認識されないことだ。太陽礼拝の実践を1週間も続けると、あの巨大な火の玉が、毎日毎日くるくると頭の上を通って回転しているという驚愕の事実に面食らうことだろう。そして太陽の熱量、光量の甚大さを認識するのは、それがなくなった時、つまり日没後の暗闇においてである。

 

都市部では街灯が点灯し、夜の暗さを思い知る機会はそうそうないが、例えば部屋の電気を消してみるだけでも、夜とは自分の身体をとりまく環境がどのような状態になることなのか、体験することができる。日中の太陽礼拝によって、太陽的生命力のパイプとしての通りをよくしたら、次は夜の光、我々を照らす星の光への感受性を高めることで、太く大きく流れる生命力により精妙な方向付けを行うことができる。

 

夜、なにもない広場に立っているとしよう。夜というのはただの闇ではなく、頭上には壮大なドームがかかり、そこを無数の微かな光の点滅がゆっくりと回転している。季節が変われば点滅模様も変化し、全体が規則的に回転している中で、幾つかの点はより不規則に、自己主張しながらドームを巡っている。これはファンタジックに誇張した描写ではなく、我々が生きている地球上で見られる「夜」という状態を、ただそのままに記述しただけだ。街頭によって視覚的には見えなくとも、そのような光の点滅が我々に覆い被さるように包み込み、点滅しながらゆっくりと回転している事実は変わらない。そうイメージして、なんだかこそばゆいような気持ちにならないだろうか? ならないなら、なるはやで星がよく見える山、海、キャンプ場などに出かけ、星空のドームの途方もない大きさ、か細いがしみ込むような星の光を観察し、そんな真っただ中にいるのはとてもこそばゆいことだ、という感覚を味わって欲しい。この「こそばゆさ」が、次に着手する惑星魔術のキーとなる身体感覚なのだ。

 

西洋魔術の象徴体系において、黄道12宮(所謂12星座)と10惑 星(含む月)は、人体における内骨格系のような重要性が付与されている。その惑星的諸力を引き出すには、本来的には10惑星(あるいは目視可能な7惑星)と12宮全部の基本的な象徴性を体で覚え込み、まさに「心の内なる天球に惑星が巡るように」そのシステム全体を写しとった上でのほうが、勿論効果的である。しかし、なん でもかんでも「心の内なる宇宙」に置き換えようとするのも悪い癖だ。天空を巡る太陽を礼拝する時、季節の移ろいとともにゆっくりと回転する星空を感じる時、それはそこに「ある」のであって、あなたが土星の霊の名前や対応する金属を知ってようが知らなかろうが、それは事実、あなたを中心に天球を巡っていて、あなたはそのこそばゆい光から逃れることはできず、かつてもこれからもずっとそこにずっぽりと浸っているのである。現代オカルティズムは、常にその事実から始める。

 

というわけで、無尽蔵の太陽エネルギーを循環させる磁石になる気持ち良さに味を占めた身体を、「愛(ていってるけど実際は金とかあれとかこれとかいろいろ含めてよろしく、まーインポはもうないけど)」の指向性により繊細にチューンしていくため、ここでは木星を使う。なんで木星なのか、とかは、ググるとかしてください。別になんでとか知らなくても魔術はできます。使うってどうするのか、というと、例えばこんな感じだ。

木星礼拝

1.
スマホかなんかの無料アプリで、星空ナビゲーターとかPlanet Finderとかそういうのがあるので、適当にダウンロードして、木星を視認する。今は蟹座と獅子座の間くらいにある。

2.
木星を目視し、その繊細な光を呼吸する。太陽礼拝のように無条件に受け取るのではなく、星と「呼吸をあわせる」感覚を試みる。

3.
木星の光を呼吸しながら、世界全体が微かに「ふくらむ」感覚をイメージする。それは木星のオーラがあなたのオーラに流れ込み、少し「ふくらませる」のだ、とイメージする

4.
いい感じが得られたら、そのまま礼拝を終える。あるいは、以下の所作を可能な範囲で行う。

両手の人差し指と親指で三角形をつくり、木星を囲む。三角形には青いフィルターがついているようにイメージし、それを通してみる木星は微かに青味を帯びる。祈りを唱える。

"旺盛にしていと慈悲深き永遠の主よ、弥栄 汝の雷もて天と地に寛容と多産の理を広めん ARARITA"

※この時、具体的な願望を宣言してもよい

5.
木星の礼拝はいつでも行ってよい。せっかくなので季節の星座、他の惑星の位置なども覚える。また適当にググって10惑星、12宮の象徴も覚えてしまうのが楽しい。


※勘のいい読者のために、以下に「惑星の愛撫」を列記しておく。

太陽:注ぎ込む
木星:膨らませる
月 :撫でる
金星:みつめる
水星:くすぐる
火星:繰り返す
土星:押す

さて、低次魔術の欲望から「愛」という万能シジルを抽出し、その活性化のための太陽礼拝と木星礼拝を例示した。その道に詳しい向きなら、好みに応じて霊でも天使でも金属でもハーブでも組み合わせ、さらに魔術っぽくしてみてもよい。しかしながら、ここに例示したシンプルな式次第を、あれこれ予備知識に邪魔されることなく、率直に「やってみる」のが、最も「効く」コツだ。魔術にはビギナーズラックが強く働き、なんであれ最初に、本気でやってみた魔術は必ず、驚くべき結果をもたらす。また、このシンプルな方法論と式次第が「なぜこうなっているのか」を考察していくことから、自分自身の魔術のスタイルを構築していく足掛かりとできるだろう。よりシンプルにしてもよし、より緻密にしてもよし、「なにをどうやると気持ちよいのか」を探索して欲しい。

 

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