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About Witchcraft, 魔女について

21世紀魔女の系譜

海野弘「魔女の世界史」未掲載解説(朝日新聞出版・2014)

 

 本書は十九世紀末美術における「魔女の視覚化」を起点に、様々な時代において変容しながら現れ続ける「魔女」なるものの社会的・文化的コンテクストを大胆に解読していく、希有な「魔女文化論」である。そこに読み解かれるものは、人類にとって永遠に謎めいた存在である「女性」への眼差しの変化であり、魔女の歴史とはすなわち女性の変容史そのものではなかろうか、という視点が、本書において明らかにされる。

 

 ヨーロッパ近世魔女狩りの時代に突如、恐怖とヒステリーの投影対象となり、暗がりに息を潜めた「魔女」は、十九世紀末美術における価値の転換、二○世紀初頭の複製技術の発達を経て、畏怖と憧憬の光を乱反射する千変万化の表象を纏いはじめた。そして二○世紀の折り返し地点、一九五○年代を皮切りにカウンターカルチャーの前線に参戦していく。その視座から読み解かれる「魔女」とは、見られず、主張せず、息を殺してきた女が、見られ、魅了し、戦う女へと変容していく近現代百年史の象徴なのだ。

 

 本書が十九世紀末美術における「女の視覚化」から語り始められるように、女と魔女は「まなざし」によって創られ、生まれ、変容する。そしてその「まなざし」は、二つの交錯するベクトルを孕む。すなわち、「見る」ことと「見られる」ことである。ある帯域の光線を浴びて「見られる」ことを武器とした女が、魅了の乱反射によって男性中心的な価値観を揺るがしていく一方で、自分自身の、人間存在の源泉に広がる暗闇に目を凝らし、もっと「見よう」という衝動に導かれる。
 

 

 前者を美術・フェミニズム・ポップカルチャーの表象に現れる「魔女へのまなざし」とすれば、後者はオカルティズム・ネイペイガニズムといった領域をみつめる「魔女のまなざし」である。その関係は、本書プロローグで語られる「明るい表通り」と「ほの暗いパサージュ」の関係にも対応するだろう。本稿では、博覧強記に彩られた本書の「表通り」からすっと脇道に足を踏み入れ、二○世紀オカルティズム潮流としての「魔女」のパサージュに歩み入り、本書を補う附論、解説としてみたい。

 

十九世紀末:近現代オカルティズムの夜明け

 

 合理主義という可視光線の限定された帯域の向こう側に、宇宙の不可視の様態を探索しようとする哲学的・宗教的・芸術的衝動は、近現代史に密かに供給され続けたもうひとつの熱源、不可視帯域の光源である。その衝動は文化論的には異端、オカルティズム、ニューエイジという領域を形成し、より一般的には「魔術」としてイメージされてきた。そして西欧において「魔術」は、古代〜前キリスト教的宗教文化、ユダヤ教神秘思想カバラ、タロット、占星術、また東洋の気功やヨガなどを統合した実践知の体系として、今日まで文化的生命力を保っている。

 

 二十一世紀初頭の現時点でも、いわゆる「魔術」の体系的訓練と実践を教える国際的な魔術結社が幾つか存在し、誰もが魔術を習得できる「学校」として活動している。しかし、そのような体系的な知として西欧の「魔術」が再発見・再編成されたのは比較的最近のことで、本書でもその論の起点として立脚する十九世紀末、イギリスでのことである。

 

 その背景には十八世紀フランス、それ以前のドイツやスペインなどに脈々と連なる文脈が勿論存在するのだが、それらは閉鎖的な異端コミュニティで密かに共有された神秘説、あるいは農村の呪い師たちに流布した断片的なフォークロアであり、曖昧模糊とした暗闇でしかなかった。そこに、博物学の高まり(大英博物館は一七五九年に創設され、その収蔵品増大に伴って一八八一年に自然史博物館を分館している)、交通と通信の発達、有閑階級と都市機能の複雑化・活性化といった諸条件が加わり、暇と知的情熱を持て余した紳士淑女による一大オカルトブームが巻き起こる。フランス薔薇十字サロン文化に続き、一八六七年に英国薔薇十字協会が設立され、さらにそこから魔術結社「黄金の暁」が派生する。

 

 『ドラキュラ』作者のブラム・ストーカー、ノーベル文学賞受賞者の詩人W.B.イエイツなど文人の交流の場となった「黄金の暁」は、ヨーロッパに断片化し散逸していたグリモワール(魔導書)、召喚魔術、カバラ、タロット、占星術などの秘教的知識を統合し、今日西欧で「魔術」という言葉でイメージされるものの骨格見本として組み上げた。すなわち、近現代オカルティズムの主要な源流はおよそ一二○年前、合理主義と耽美主義と象徴派美術が交錯するロンドンで形成されたのである。

 

反逆のアイコンとしての女性とウィッチクラフト

 

 本書で論じられるところの「新魔女運動」の萌芽は、この「黄金の暁」に直接に由来するものではなく、むしろその反動、反抗をエネルギーとして後年に勃興した。「黄金の暁」で魔術を学んだ後に同団を追放され、後にドイツ由来の秘儀結社OTO(東方聖堂騎士団)を再編成した「二○世紀最大・最悪の魔術師」アレイスター・クロウリーと、元マレー駐在員で在野の民俗学者であったジェラルド・ガードナーが共謀し、新魔女運動の突端を開いた魔女カヴン組織「ウィッカ」を創設する。クロウリーとガードナーはともに、イングランド伝統魔女宗派の中でも特に異端的な流派だったピッキンギル派の参入者、つまりカヴンの兄弟であった。ラジカルな魔術思想とスキャンダルにまみれたクロウリーと、イングランド異端宗派の魔女であったガードナーはともに、フリーメーソン的な、お行儀が良く、頭が固い、男性中心的な従来の秘儀結社に幻滅していた。両者は、特にフランスの反教会・反道徳的美意識、そして無神論者と女性の参入を受け入れていた大陸メーソン(コンチネンタル・メーソン)の気風をイングランドに持ち込み、男性中心的な英国メーソン系結社とイングランド伝統魔女宗派への対抗勢力として「ウィッカ」をデザインしたのである。そしてその反逆の精神を端的に示すシンボルが「女」であった。

 

 魔女という訳語には、扱いにくいものがある。英語のウィッチクラフト(Witchcraft)はまじない、妖術を表す言葉であり、その実践者であるWitchは女性に限らない。むしろイングランドの伝統的ウィッチクラフト諸宗派は常に男性司祭によって率いられてきた。そのような事情があったからこそ、新時代のウィッチクラフトを企図したクロウリー=ガードナーの「ウィッカ」は、「女司祭」を中心に据えてその反逆の意志を強調したのである。つまり、ドメスティックで男性中心主義の「ウィッチ」から、グローバルで女性中心主義の「ウィッカ」への跳躍によって、今日に連なる「反逆する魔女」の源像が生まれたといえる。

 

 反男性中心主義、反教会、その他あらゆる反〜〜を集約し得た象徴が「女」であったことは、ある意味当然である。本書でも述べられるように、アダムをそそのかし楽園追放の原因となったイヴ、それに先立ち人類最初に騎乗位での性交を試みたせいで楽園を追放され、後にサタンと交わって魔女の血族を生み出したリリスなど、あらゆる反逆・反権力の前線に「女」がいる。肛門性交の嫌疑をかけられ弾圧された異端カタリ派とテンプル騎士団、熾烈な魔女狩りの時代を記憶に刻み、それ故にホモセクシャルと悪魔的美学への美学的礼賛を保持し続けたフランスのディレッタント詩人たちは、反逆のアイコンとしての「女」の象徴性を熟知していた。その気風が英国の二人の問題児クロウリーとガードナーに、共通の魔女の師であるピッキンギルを介して流れ込み、女司祭に率いられる反逆の魔女宗「ウィッカ」を誕生させしめたのである。

 

カウンターカルチャーとDIY宗教の潮流

 

 その反逆の炎は、一九五○年代から六○年代を通じてくすぶり続ける。ガードナーは「今日の魔女術」などの著作を続けて発表し、ウィッカ組織を着実に拡大していった。同時にアメリカでビートと呼ばれる文学運動が起こり、ドロップアウトした若者はマリファナとジャズを浴びながら放浪を開始する。六○年代に入るとベトナム戦争に対する反戦運動が作家、音楽家、そしてサイケデリック信奉者とオカルティストを巻き込んで、大きな渦を巻き起こす。

 

 オカルトブームが巻き起こり、クロウリーが再評価される。レイモンド・バックランドやファーラー夫妻といったガードナーの弟子筋たちがアメリカで分派を形成し、特定のカヴンに属することなく魔女となる「セルフイニシエーション」の思想を提唱する。そしてヒッピーと呼ばれた若者たちの間から、サイケデリックとオカルトを混交したメタ宗教、ジョーク宗教といったものが現れはじめる。混沌の女神エリスを信奉するディスコーディアン運動は、クロウリー主義者で雑誌プレイボーイの編集者であったロバート・アントン・ウィルソンによって紹介され、後の八○年代アメリカ陰謀論文化の土壌を形成した。またドルイドやアサトルなどの古代宗教が突然、メタ宗教として再興され、ネオペイガンと呼ばれる潮流を形成した。従来のオカルティストたちからは眉唾物として軽んじられてきたサタニズムやブラックマジックの結社が、一種の哲学、ライフスタイルとして質と評価を高めていく。七○年代後半の英国では、神も儀式も自分自身で考案し、ハードコアな身体感覚のもとに自分だけの魔術修行を行う魔術流派、混沌魔術(ケイオスマジック)という一派が勃興する。

 

 この流れの基盤にあるのは、古代宗教だろうが魔女であろうが陰謀結社であろうが、伝統という権威に依らず、自分自身でつくってしまう、やってしまう、セルフイニシエーションで自分一人で魔女になってしまう、というDIY精神であり、そのお手本として口火を切ったのが、クロウリー=ガードナーによる新魔女運動「ウィッカ」だったのである。

 

インターネットと新・新魔女世代

 

 DIYの魔術、DIYの宗教という、一般的な日本人にはちょっと理解しにくいかも知れないこの文化潮流は、その後も大きなエネルギーを保持して展開していく。この文化潮流に次なる大きなキックを与えたのが、インターネットである。 
  
 それまでDIY精神に貫かれたメタ宗教、ジョーク宗教、ネオペイガン、ウィッカ以降の新魔女運動も、出版という権力装置から完全に自由になることはできなかった。新世代魔女たちは、人から人へ伝達されるマニアックなアングラ出版と、諸事情と折り合いをつけた商業出版活動の間を揺らぎ続けてきた。そこにインターネットという新しい伝達経路がもたらされ、魔女たちの濃密なリアリティ、アイデア、咆哮が、遂にマスマーケティングの呪縛から解放されて溢れ出したのである。

 

 そして九○年代後半から、新たな事象が巻き起こり始めた。この時点で既に「伝統派」の位置を占めるようになったウィッカやその分派は、インターネットのフォーラムで自由奔放に論じられ、形成される新しい魔女文化とその担い手たちとの距離を掴むのに苦心し始めた。北米では書籍やネットで知識を集め自己参入儀式で魔女になる十代の魔女たちが「ティーンウィッチ現象」と呼ばれ社会問題となった。ウィッカなどいわゆる先輩方の「まっとうな」魔女カヴン組織は、伝統的にティーンネイジャーの参入は受け付けないか、特殊な条件付きでしか認められなかったが、ネットを媒介としてティーン向けのフォーラムや、ティーンを対象とした参入位階組織などの整備に着手せざるを得なくなった。

 

 そんな中、どこのカヴンにも属しない、独立独歩のカリスマ・ティーンウィッチとしてシルヴァー・レイヴンウルフが登場し、この世代の象徴的存在として注目を集める。彼女はインターネットフォーラムで活発に発言し、新・新魔女世代のひとつのスタイルを打ち立てた。こういったネット世代のDIY魔女たちの背景には、文化部族としての「ゴス」のネットワークが大きく関与している。そしてもはやガードナーやクロウリーからも離陸した新世代魔女の文化遺伝子が拡散し、エーテル的な吸血行為を人生哲学にまで高めた「ヴァンパイア」、自分のアイデンティティを人類以外のエルフや人狼族に見出す「アザーキン」といった新たな都市部族として、二○○○年代に勃興していくのである。

 

コミックとアニメ - 日本発の魔女イメージ

 

 五○年代ウィッカ黎明期、六○年代カウンターカルチャー、七○年代フェミニズム、九○年代以降ゴスロリからネット魔女たちへと連なる「反逆する女」の系譜に、コミックとアニメという日本発の文化の影響が逆流して流れ込む。戦う女、成熟した女であることを暗に強要される欧米文化は、未成熟な子どもの象徴であるはずの制服をキワドいミニスカートに仕立て戦う「美少女戦士セーラームーン」(一九九二)を、極めて反逆的で魔女的なアイコンとして熱狂的に迎え入れたのである。日本で独特の進化を遂げたラディカルな「少女性」は、ゴス以降の反逆的若者たちのモードに取り込まれ、海外コスプレイベントの変身祭儀を支えている。新魔女運動からフェミニズムを貫く欧米の「戦う(大人の)女」とは全く異なる奇妙な外来種である「戦闘少女」「魔法少女」が突如流入し、欧米の在来種魔女と交配しはじめたのである。

 

 「魔法少女まどかマギカ」(二○一一)では、救済者キリストの役割が、純真で無力な少女へと移譲されている。少女は自身が孕む「愛らしさ」と「残酷さ」の狭間でもがき、闇の存在である「魔女」へと自身が転落してしまう危険と背中合わせに、光の存在たる「魔法少女」としての戦いに挑む。自己完結した自閉症的リアリティの内部で、ひたすらに無力で、可愛い存在である少女は、遂には多次元宇宙における「魔法少女」の永遠の戦いを見守る菩薩のような存在へと霊的進化を遂げる。また「カードキャプターさくら」では、毎回親友が用意するコスプレを着せられ、カメラで撮影され「見られながら」戦い、アレイスター・クロウリーがモデルの大魔術師のタロットカードを回収する。いずれも海外で熱狂的なファン層を獲得している。

 

 日本のアニメ・コミック文化と欧米新魔女運動の共鳴は、相互的なものでもある。つまり、欧米カウンターカルチャーの洗礼を受けた世代がアニメやコミックの制作者となって、オマージュを散りばめた作品を発表し始めたのだ。「交響詩篇エウレカセブン」(二○○五)では、反政府軍のアジテーションに感化された少年が「サマーオブラブ」と呼ばれる革命を目指す戦いに巻き込まれるのだが、彼が乗り込むロボットの名前はKLFといい、これは先述ディスコーディアン運動とその後継である90年代テクノユニット名から採られている。彼らが駆使するのは反重力サーフィンであり、その波のエネルギーはトラパーという。これは勿論、70年代以降新たな心理学概念としてヒッピーとニューエイジャーたちに影響を与えたトランスパーソナル心理学をもじっている。こういった欧米カウンターカルチャーの、特にマニアックでアングラ的なアイコンが溢れる「交響詩篇エウレカセブン」は、かつては対立的な文化勢力であった「オタク」と「カウンターカルチャー」が、隔世遺伝と異種交配によって溶融した今日の日本アニメの状況を端的に示している。

 

 「地球少女アルジュナ」(二○○一)では、臨死体験によって啓示を受けた少女が、スピリチュアルでシャーマニックな感性を開花させ、動物愛護や原子力、エコロジーといったモチーフを行き来しながら、全人類的な問いに対峙する。ヒンドゥー教の聖典「バガヴァットギーター」から採られた名を持つ少女が、臨死体験によってエコロジーに目覚めるプロセスは、そのまま六十年代サマーオブラブから七十年代フェミニズム、八十年代エコロジーへと続く二十世紀欧米カウンターカルチャー史の忠実なトレースである。

 

 このような隔世遺伝的・異種交配的な混交が、結果的に日本のアニメと西欧オカルティズムの核心部分にある実践知を、意図せず合流させてしまった例が「中二病でも恋がしたい!」(二○一二)である。この作品では「中二病」という現代日本の特徴的な自意識過剰、自閉的傾向が戯画化されて描かれる。彼ら「中二病」を患う少年少女たちは、「ここではないどこか」「わたしではないわたし」という重層的なリアリティを生き、ブーストされた想像力によって魔法陣を「視覚化」し、心的リアリティとして家族や社会との魔術戦を戦う。その描写はそのまま近現代西欧魔術・魔女術実践の具体例として提示し得るほどに本質的だ。「視覚化 Visualization」は、現代の実践オカルティズムにおける基礎的な心身操作技法として、ほとんど全ての流派の西洋魔術結社・魔女術カヴンでまず最初の訓練メニューとして提示されるものだ。「オタク」が自虐的に育み強度を高めてきた「中二病的まなざし」と、十九世紀末以降、発見され、魅了し、深淵を覗きこむ「魔女のまなざし」という、ふたつのまなざしが、この作品において見事に交差している。

 

 この他にも大友克洋「AKIRA」(一九八二)、宮崎駿「風の谷のナウシカ」(一九八二)、星野之宣「ヤマタイカ」(一九八六)、五十嵐大介「魔女」(二○○三)など、その世界観と時代精神が国内外問わず大きな影響を与えてきたコミック・アニメ作品は枚挙にいとまがない。そこではチャイルデイッシュであるが故にオルタナティブな、重層化・多元化したリアリティが、主流的・男性中心的な社会を相対化し超克していく力動となり、日本から世界へ流れ出す激流を形成している。また、コミックと実践オカルティズム文化の相互参照系を明らかにする事例として、アラン・ムーアの代表作「プロメテア」が2014年に翻訳紹介されていることも指摘しておきたい。

 

ゴスロリ以降 – エソカジとシーパンク

 

 チャイルディッシュでオルタナティブ、KAWAIIくて凶暴な「魔女」の文化は、今まさに全盛を極めている。本書で解き明かされた、ゴシックからパンク経由で「ゴスロリ」に噴出した流れは、米ロックシンガー、アヴリル・ラヴィーンが2014年に発表したPV「HELLO KITTY」において見事に統合されている。トロージャンヘアに黒ジャケット、レザーグローブに極彩色のミニスカートというスタイルで、ハロー・キティへの帰依の呪文”KA-KA-KA-KAWAII! ”が捧げられている。そしてこの流れは、現在少なくとも二つの事象へと接続している。

 

 一つはファッション・モードとしてのエソテリック・カジュアル、「エソカジ」である。魔術、魔女、陰謀論など西欧オカルティズムのアイコンがファッショナブルな記号として流通し、古代エジプトの「ホルスの目」や、フリーメーソンの「真実を見通す目」、悪魔召喚の護符や魔女のシジルといったアイコンがテキスタイルやアクセサリーに溢れ出し、ミュージックビデオを彩っている。かつてゴシック・ロマンで武装した少年少女たちが、その発展系として実践魔術のアイコンを纏うのは、本書を読まれた読者には自然な流れとして容易に納得できるだろう。

 

 もう一つは「シーパンク」と呼ばれる音楽・グラフィックのモードであり、これはsoundcloudやYoutubeといった音声・動画投稿サイトをプラットフォームとして一つの潮流を形成している。「シーパンク」は、九○年代サイバーレボリューションのバックラッシュであり、前時代的で、それ故に強烈にサイケデリックな感覚を喚び起こす九十年代テイストのCGや、イルカ、サイキックTVなど九○年代のテクノ・オカルト文化のリミックスを提示している。「シーパンク」の派生サブジャンルとして「ウィッチハウス」がある。両者に共通しているのは、安価な電子テクノロジーで武装したDIY精神によって、スクールカーストを下方向に逸脱し、突き抜けていく「反マッチョ」あるいは「オタク」的な精神であり、 ヴァンパイアやアザーキン、ティーンウィッチといった欧米反逆ティーン文化の最前線と呼応し、あるいはそれそのものとしてぴったりと重なるものである。

 

  「エソカジ」「シーパンク」という二つの現在的な潮流の交点として、日本に結像しているのが「きゃりーぱみゅぱみゅ」である。彼女のビデオクリップにはキッチュな色彩のオカルトアイコンがKAWAIIく凶暴に配置され、まさに「エソカジ」とは何たるか、「シーパンク」に噴出する二十一世紀の少女的衝動とは如何なるものであるかを、これ以上ない程に鮮明に視覚化している。

 

 ポップカルチャーのフィールドでの魔女を巡る「まなざし」が明度と彩度を高めていく一方で、その影響がシリアスなオカルト文化に逆流していく現象もみられる。二○一三年にネット・コミュニティとして日本で生まれた「ウフィカ」は、本書で論じられてきた「新魔女魔女運動」と、日本の深層意識としての「縄文」を軸とした現代日本の魔女文化を発信し、欧米ニュースメディアがそのドキュメンタリーを制作するまでに注目を集めた。十九世紀末に始まる「魔女」の可視化は、二十一世紀日本のコミック・アニメの想像力と交配し、ネットワークで接続される新たな「魔女」の血族を生み出し続けているのだ。

 

 「魔女」をめぐり交錯するまなざしを手がかりに、二○世紀史の明るい表通りに並走するパサージュとしてのオカルト文化史と、ネット以降生成され続ける新たな路地の見取り図を駆け足ながらみてきた。「見るもの」と「見られるもの」が交錯するこの猥雑なパサージュには、同時に「見えるもの」と「見えないもの」がめまぐるしく交換される「二十一世紀の目眩」が溢れている。

 

 本書は、私が十代の頃から敬愛し、甚大な影響を受けてきた海野弘先生に、いまここに巻き起こっている「魔女現象」の「目眩」を記述して欲しい、それを読みたい、という欲望をぶつけた結果、生まれたものである。海野先生は日本初の本格的グラフィックマガジン「太陽」の編集長を務められ、これまで世紀末美術、ニューエイジ、陰謀論、芸術論、都市論と、圧倒的な知的帯域の広さで数々の評論を著してこられた。その、一見脈絡がないように見える主題を自由に遊歩するまなざしは、目の前に見えているモノとモノの間にある、見えない遊歩道を発見する知覚、網(ルビ:ウェブ)状の「視覚知」とでも呼ぶべきものだ。

 

 私は神秘思想、オカルティズム、20世紀後半の対抗文化と20世紀末情報革命を繋ぐものを求め、海野先生の書かれたものを貪るように読んで今日に至った。そんな私としては、こうして21世紀始まって間もなく「魔女」を解読する作業に海野先生が着手されたことに、強い必然性を感じざるを得ない。まさに網(ルビ:ウェブ)状の視覚が惑星を、歴史を、時間を包んでしまうかのような現在、そこに浮かび上がる知(ソフィア)が、変幻自在に輝き乱舞する裸の女の姿であることは、海野先生には自明のことであった筈だ。

 

 私の想像を遥かに超える視座と記述で、私の身の程知らずな欲望を圧倒してくださった海野弘先生、編集作業にあたり啓示的な示唆を惜しみなく提供してくれた谷崎榴美氏、見えるものと見えないもののパサージュへの迷走に同行し、本書を具現化してくれた編集者谷野氏に尽きることのない感謝を捧げる。そして、本書を手にとった読者、特に少年少女たちが、「魔女」とは何者で、どこにいて、どこに向かうのか、その果てなき思索、乱反射するまなざしと目眩のパサージュへと連れさられてしまうことを願う。


 

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